遊びについての心の理論
遊ぶことと心の揺らぎはきわめて深い関係を持つというのが私の主張だが、そのとっかかりとしては、まずはフロイトの「糸巻遊び」を論じなくてはならない。精神分析理論に詳しい方でなくてもよく知られているこの「糸巻遊び」は、フロイトが1920年に書いた「快楽原則の彼岸」という論文に収められている「Fort-Da」の遊びとも呼ばれている。フロイトの一歳半の孫が、母親の不在を体験した時に、ひものついた糸巻きと遊ぶ様子が描かれている。彼は糸巻をベッドの下に投げ入れ、「Fort(いない)」を意味する「オー」という発声をし、それからひもを手繰って糸巻きをベッドの下から引っ張り出して、姿を見せた糸巻きをみて「Da(あった)」を意味する「アー」という発声をする。彼はそれを延々と繰り返して、母親がいなくなった時の苦痛を劇化していると解釈する。そしてそうすることで「欲動満足に対する断念」が行われるというのだ。そしてフロイトは、「苦痛な体験を遊びとして反復することは、どのようにして快原則と整合性が付くのだろうか?」と問い、そこから死の欲動を発想したことになっている。
このように遊びがある種の心の苦痛を和らげ、それに一方的に苦しめられる立場から、それをコントロールする立場にかえるという理論は、その後分析の世界ではかなり一般化する。もちろん精神分析だけには限らない。一般的に遊びが外傷体験の克服として用いられるという考え方は、むしろ私たちにとってなじみ深いもののようだ。
このテーマでは「地震ごっこ」や「津波ごっこ」のことが思い出される。以前書いた論文(2001)(岡野憲一郎(2001)災害とPISD-津波ごっこは癒しとなるか?-『現代思想』39-12、青土社、pp.89- 97)で強調したのは、「津波が来たぞー」といって興じる子供たちの多くは自らの外傷体験を克服することにそれを役に立てるとしても、一部にはそれが津波の悪夢を蘇らせるものとなってしまうかもしれないということだ。「遊び = トラウマ体験のコントロール」という説はそれほど簡単なものではないかもしれないのだ。
さて、糸巻の出し入れの反復は、糸巻の「隠れる ⇔ 姿を現す」の揺らぎ、ということになるが、これが繰り返されるのには理由がなければならない。それ自身が心地よかったり、それがある種の不安を和らげるという役割を持っているのであろう。その一つは自分がモノをコントロールできるという能動感かもしれない。母親は自分を置いて行ってしまい、それをどうすることもできない。しかし自分は糸巻を隠したり出したり、と能動的に操ることが出来るのが快感ということだろう。
ウィニコットと二重の現実性の間の揺らぎ
遊びについて精神分析の立場から精緻な論述をしたのがドナルド・ウィニコットである。彼の理論を追っていくと、遊びと揺らぎの関係がもう少し明らかになるだろう。
ウィニコットは子供が遊びを通じて現実を受け入れていくプロセスについて、きわめて説得力ある論述をした分析家である。彼の論述は非常に緻密で論理的だが、決して現実から遊離していないのが特徴といえるだろう。常に現実に起きている母子を頭に浮かべている。だから彼の理論は信頼がおけるのだ。
ウィニコットがその代表作「遊ぶことと現実」等で提出した「移行対象 transitional object」の概念はまさに彼の思索の結晶であり、画期的であった。乳児は生後2,3か月になると、「原初の“自分でない所有物not-me possession”」(Winnicott, DW. 1971,P2)すなわち移行対象を作り出し、それと遊ぶようになる。それは毛布やデティ・ベアのぬいぐるみなどである。そしてこれが主体に象徴と他者性をもたらす、という。
Winnicott, Donald (1971)
London, Tavistock. (橋本雅雄訳 遊ぶことと現実 岩崎学術出版社 1979.)
この移行対象についての以下のウィニコットの説明は、私にとってはそれでも少し「ほんとかな?」と思うようなところもあるが、おおむね納得がいくものである。それはこんな説明だ。乳児は、大切なもの、例えばお母さんの乳房が最初は自分の一部であるというファンタジーを持つ。それはいつもそこにあり、自分がおっぱいを欲しいと思うときに差し出されるから、自分がそれを持っているものだと思い込む。それはちょうど自分の親指はいつでもそこにあり、しゃぶろうとすればいつでもそうすることが出来るのと同じである。つまり母親の乳房は、赤ん坊にとっては最初は客観的な対象としては認識されないのである。
ここで重要なのは、「オッパイ欲しい」という欲求とそれの満足に最初は遅延がない、ということだ。あるいは少なくともウィニコットはそう考えた。ところが徐々に赤ちゃんはそれがときどき起きていることに気が付く。どうやら乳房は何時も望んだ時にはそこにある、というわけではなさそうだ。「そこにあるはずの乳房がそこにない …・」これは赤ちゃんにとって深刻な体験である。厳しい現実との直面だ。しかしそこで赤ちゃんはそこから「対象を創り出す、考え出す、引き出す、考え起こす」という力を発揮するという。それが人間の人間たるゆえんだ。そしてその一つが移行対象なのである。お母さんがいない時に、代わりに触ったりだっこしたりできるものとして、例えばクマの縫いぐるみを用い、それでとりあえず母さんにだっこされたことにする。足りない分は想像力で補う。つまり移行対象は母親(や彼女の乳房)の不十分な代替物ということになるのだ。
さてこの文脈でウィニコットが、そしておそらく多くの私も含めた分析関係者が関心を持つのは、自分がこうだと思い込んでいる対象イメージと、現実の対象の在り方のギャップだ。ズレ、差異、と言ってもいい。そしてウィニコットはこのズレこそが心を生み出す、とさえ言っている。そしてそれが生まれるのが「ポテンシャルスペース」、「可能空間」であるとした。ウィニコットはそれを「主観的な対象と、客観的に知覚される対象の間の、つまり自分の延長線上と自分でないものの間の、可能性のある空間」(W.1971, p135)とした。これは主観世界と客観世界の間の揺らぎと言っていい。そしてそれを形として象徴しているのが、移行対象ということになる。
皆さんはこう思うかもしれない。「移行対象と言えば、すでにモノ、物体であって、揺らいではいないで確固としてそこにあるではないか」。例えばクマのぬいぐるみがどうして揺らいでいるのか、という主張だ。しかし実はぬいぐるみは揺らいでいるのだ。それはある瞬間にはただのモノであり、ある意味では愛すべき生きた対象なのだ。つまりクマのぬいぐるみそのものが揺らいでいるのではなく、それを見る目が揺らいでいるのである。そしてこれは、フロイトの孫が糸巻を動かすことによりコントロールしたのとは異なり、心の中だけで揺らぎを生み出しているということである。
これを書いていてひとつ思い出した。昔ピカチューの顔のドーナツを見つけて、ピカチュー好きの息子に与えて見た。すると彼はそれを食べられない、と言う。「エ、単なるドーナッツなのに…」。それもそうだと思いなおしてかぶりつこうと思っても次の瞬間には生きたピカチューに見えてしまい、やはり食べられない。ピカチュードーナッツが「揺らいで」いた何よりの証拠である。ドーナッツなのに。でもそれを食べるとかわいそうだというわけである。
ちなみにおそらくこの種の商品はおそらくあまり売れないであろうし、少なくともコレクターアイテムとしての意味しか持たないであろう。アイドルを印刷したトイレットペーパーなども同じ運命をたどるのである。なんだか揺らぎの話から逸れてきたが・・・・。。