遊びにおける揺らぎの問題
笑いと関連して遊びのテーマに面を転じよう。笑いは意味の揺らぎを前提とすると述べた。すなわち極めて高度な知的能力を必要としているということになる。では遊びはどうだろうか? 笑いと遊びは似たようなものだとお感じになるだろうか? 両方ともある種の快感を伴った体験である。しかし遊びは実は動物のレベルで生じていることを忘れてはならない。動物は笑うことはなくても、遊ぶことはできるのだ。
ところで私にはどうしても不思議なことがある。私の考えでは、この笑いの問題は遊びやじゃれ合いと深く結びついている。ところが遊びやじゃれ合いは、動物の世界ではごく当たり前に起きていることなのだ。心というものが存在するのは霊長類からだろうか、という問題が真剣に語られる一方では、ワンちゃんだって生まれて結構すぐから一緒に生まれたきょうだいとじゃれ合い始める。じゃれ合っている子犬に心があることなど自明だろう。しかも彼らのやることはとても手が込んでいる。相手を攻撃するようで爪はしっかりひっこめている。ギリギリのところで本格的な攻撃を回避する。それをお互いに際限なく繰り返すのだ。もちろん動物学者はもっともらしく説明するだろう。これはその個体が身体能力を高めるためのものなのだ、とか狩りの予行演習なのだ、などである。しかしどうしてこんな芸当が可能なのだろうか、と私は不思議になる。
系統発生的に考えてみよう。爬虫類や両生類にじゃれ合いは可能か? 卵からかえったオタマジャクシ同士が追いかけっこをして遊んでいる、という話など聞いたことはない。ワニの子供たちがお互いに甘噛みをして遊んでいる、という光景は想像できない。どう考えても哺乳類からである。グーグルで「じゃれ合い、動物」で動画を検索してみると、やはり出てくるのは猫、犬、馬、パンダ・・・。おそらく海の中ではイルカやクジラだったら可能だろう。
専門家によれば、爬虫類や鳥類にも、遊びらしき行動はあるが、一時的、偶発的で、持続的な社会行動としての遊びは、哺乳類に特徴的なものであるということだ(津田、p344)。
じゃれ合いということについて揺らぎとの関連で言えば、これは心や身体活動が攻撃と愛情表現という二つの体験の間を揺らいでいることを前提としている。そしてこの両者のギャップが生み出されることで興奮やスリルや笑いをもたらすのだ。例えば仲間の動物に、あたかも本気で襲い掛かり、攻撃をするようなふりをすることで、逃走・逃避反応の発動間際まで起こさせ、その寸前でその手を緩めて、「ナーんちゃって」といって中止し、ギャップを楽しむのが遊びということになる。その前提になるのは、相手の心に浮かんだ一瞬の恐怖を推し量ることができる能力だ。なぜなら相手がそれを真の攻撃と体験することで逆に反撃される危険を冒すことは許されないからである。そしてこれは意味の揺らぎや自他の揺らぎを体験できないと成立しないのである。
ここで少し視野を広げてみよう。子供が親にお乳をねだる様子や、オスとメスの交尾の様子を考えよう。するとかなり系統発生の下の方のレベルにまでさかのぼれそうだ。昆虫のレベルでもオスとメスが体を合わせる、イチャイチャする、という一見じゃれ合い風の様子が見られるからだ。
ところが昆虫のレベルでの交尾は、実はいちゃつきや遊びとは全く異なるものになる。というのも彼らにとって交尾とは一歩間違えれば相手に殺されかねない危険な賭けでもある。
サソリの交尾の様子。決してアソビでは済まない。 |
サソリの交尾を例に取ってみよう。オスは一歩間違えばメスに尾の先の針で一刺しされそうなリスクを負いながらメスに近づき、相手に刺されないようにその鋏をガッチリつかんで距離を保ちつつ目的を遂げようとする。というのもメスはオスが気に食わなければ本気で襲い掛かってきかねないからだ。このような姿を哺乳類のカップルと比べよう。健康的なカップル同志のいちゃつきはどこか子供のじゃれ合いに似た、平和で幸せに満ちた関わり合いのように見えるだろう。ところが遊ぶことのできない下等動物にとっては、交尾はまさに命をかけた真剣勝負という形をとるしかなくなってしまうのである。