本章では、心の揺らぎと「いい加減さ」について論じてみよう。ちなみに下敷きとなるのは、わが国の代表的な精神分析家である北山修氏の「いい加減さ」について一連の考察である。「いい加減さ」とは決して、イイカゲンなテーマではない。いい加減であることは私たちが追及する揺らぎの問題とも密接に関係し、かつ人の心のあり方の極めて本質的かつ重要な部分である。
いい加減さとは何か?
個人的な話であるが、私は自分はかなりいい加減だと思っている。適当(テキトー)、と言ってもいい。書類が送られてきてもすぐには読まない、メールを開けないでほっておく、などは昔からそうであり、今でもあまり変わらない。適当なところで手を抜こうとする。「四角い部屋を丸く掃く」、という表現があるが、それにぴったりだと思う。ただしいい加減なことをしっぱなしだと何もきちんと成就できないこともわかっているので、一番大事な部分に関してはいい加減さを最小限に抑えようとしている。だからそこそこの成果は上げているつもりだ。それは自分のいい加減さをある程度自覚しているからであろう。
そこでそもそもいい加減さとは何か? あるいはいい加減でない、きちんとしている、とはどういうことか。私の周囲の人々はほとんどが私ほどいい加減でないおかげで、私はきちんとした行いや仕事ぶりを日常的に見せてもらっている。そしていくつか気が付いたことがある。
いい加減さは興味のなさ、そして緊張感、不安感のなさに関係している。そしてもう一つは強迫的な傾向や気の済まなさとも深い関係がある。例えば仕事上のメールで、ある事柄について検討して意見を伝えなくてはならないとする。それが私にとってとても重要で、また関心を寄せていることであれば、おそらくいい加減には済まさないし、そうしようとも思わない。私はそれを処理し、直ちにメールを返信し、それに対する相手の反応を興味深く見守るかもしれない。またその検討すべき内容が私の個人的な興味を引かなくても、その返信を行わないことが重大な結果を招いたり、大きな損失を生むなら、かなりいやいやながらでも返信をするだろう。またもし私がある種のメールに関しては、すぐにきちんと返信しないと気が済まない、ということがあれば、おそらくすぐに返信をするはずだ。この場合に私が「するはずだ」という言い方しかできないのは、私にはそもそもそのような強迫はほとんど感じないからだ。だからあまりそのような人の身になってその体験を想像することができないのである。
そしてこのように考えると、私は自分のいい加減さは、実に自然なあり方であるとさえ思う。私は幸か不幸か、与えられた仕事をすぐにきちんと行う動機となっているような不安や強迫を持たない結果としていい加減であり続け、それはおそらくその分のエネルギーを自分が興味を持つことに注ごうとしているということになる。
北山の「いい加減さ」の理論は極めて多岐にわたっているが、まずは言葉の定義からである。彼は「いい加減さ」として、として「あれかこれか」の二者択一でも「あれもこれも」という欲張りでもない状態と述べているのが興味深い(2019)。ここで「あれかこれか」、という姿勢を「AかBか」と、「あれもこれも」を「AもBも」と言い直しておこう。いい加減さはこの二つの間を揺れ動く状態ということが出来る。しかしこれは具体的にはどういうことなのだろうか?
きたやま おさむ (著), 前田 重治 (著) 良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理 講談社現代新書 2019.