揺らぐ心と揺らがない心
以上、発達障害を二つの意味での揺らぎの減少した、ないしは欠如した状態とみなすことについての説明を行った。ただし私はこの二つの心の在り方に優劣をつけるつもりはない。というよりは両者はともに必要な心性なのだと思う。そしてこのうちどちらか一方が欠如してしまうことが問題を生むと考えている。言葉を変えれば「揺らがない心も必要だ」と私は言っていることになるが、本書ではもっぱら揺らぐことの意義や重要さを強調してきた手前、この主張は意外に感じられるかもしれない。しかしこの点は強調しておかなくてはならないのであるが、そもそも私たちが理屈や理論に従って物事を処理するときは、必然的に揺らぎを極力抑えて思考をする傾向にあるのだ。
第3部の第2章で述べたように、人が白黒の決着をつけ、排他的に決断をすることは、生命維持のために必要なことだったのだ。それはある事柄を遂行する際には特に際立って重要になる。目の前に現れた生き物が、自分の天敵なのか、それとも逆に自分が捕食をするべき獲物なのかはおそらく瞬時に決断をしなくてはならないことである。すぐに逃げないと逆に捕食されてしまうであろうし、またすぐに捕まえないと捕食する機会を失ってしまう。その際はあらゆる具体的な情報を勘案して、即断しなくてはならない。そしてその決断を下すうえで不明であったり得られていない情報があったりすれば、それを即座に追及する。この時の心の動きは、どちらかと言えばAI(人工頭脳)的と言えるだろう。あいまいさのない、理論的な推論に従った即断即決が最優先されるのだ。そしてそれはちょうど先ほどのA君の例でいえば、Bさんの断りのメールへの、間髪入れない対応だったのだ。
それではこのような曖昧さのない、揺らぎのない思考の何が問題なのだろうか?それは二点あげられる。第一点はこのような思考方法は一種の個人的なこだわりへと発展することである。論理的に物事を判断し、それに従って行動をするという方針は、それにまつわる様々な事柄を一義的に決めていくことにつながる。そしてもう一点は、揺らぎの欠如が人との情動的なコミュニケーションを阻害するということだ。そしてそれが例示されていたのが、これまでみたA君とBさんのやり取りだったのだ。これらの問題について、以下の実際の例を見ながら。もう一度検討を加えてみよう。
揺らぎのなさと強いこだわり
意味の揺らぎが最小限に抑えられることで自己や周囲にどのような問題が生じるかを見るために、18世紀の英国の天才ヘンリー・キャベンディッシュに登場していただこう。
キャベンディッシュは化学、物理学の分野で華々しい成果を上げたが、様々な奇行でも知られていた。彼は生涯同じ散歩道、同じ服装を通すなど、私生活上の強いこだわりを見せたとされるが、現代的な見地からは、彼には対人恐怖傾向の強いアスペルガー障害としての兆候を多く備えていた(自閉症の世界 スティーブ・シルバーマン 正高信男,入口真夕子 訳 講談社 ブルーバックス 2017年)
科学者としてのキャベンディッシュは物事の計測に熱中し、緻密で正確無比な実験を行ったが、それは彼の学者としての成功を約束していた。物事の条件を一定にし、そこで起きることを観察するのは科学の常道だ。チャールズ・ダーウィンは「キャベンディッシュの脳は細かく測定をしては違いを明らかにするエンジンだった」(同P.25)と称したというが、キャベンディッシュが対象のみならず、自分の思考も同様に計測し、コントロールしようとしたことは想像に難くない。そしてそれらの思考や行為には、当然のごとく一種の快感が伴っていなくてはならない。その結果として、その計測やコントロールは、彼の生活の隅々にまで行きわたっていたに違いない。
問題はこだわりが、その人個人に留まればいいのだが、社会で生きるうえで出会う様々な人々との齟齬を生み出すということである。生涯独身だったというキャベンディッシュだが、仮に奥さんをめとり、共同生活が始まったとしよう。彼女は決して生涯同じ時間に同じ散歩コースを彼と歩き続けてはくれないであろうし、計測するための様々な機器によって部屋が埋もれることを許してはくれないはずだ。それどころか彼を天才とは認めずにとんでもない変人として扱う可能性が高いだろう。
ではどうして発達障害の人はこだわりが強く、一度決まったパターンを変えるのがそれほど苦痛なのだろうか? どうしてキャベンディッシュは、毎日決まった時刻にグラハム・コモン地区の家から出て、ドラグマイヤー通りからナイチンゲール通りを数マイル歩くというコースを生涯にわたって変えようとしなかったのだろう? 単純に考えれば、パターンを変えることが不快だったからだ。これは一種の固着とでも言うべき現象であり、これまでのやり方と同一のパターンを繰り返すことで一種の快と安堵が感じられると同時に、それから少しでも外れることは不快や不安を呼び起こすのだ。そしてそこにはおそらく深い生物学的な理由が関与していることだろう。下等生物がある決められたパターンを繰り返すという場合には、それが遺伝に組み込まれた本能としての意味付けを有する。それは一定のパターンを守れば快、外れれば不快というかなり明確な条件付けが生まれつき成立していることになる。そしてそうすることで生殖というきわめて手の込んだプロセスを踏むことが出来るのだ。
この写真は2014年に発見されて話題になったフグの一種の作り上げる産卵巣だ。どこかでご覧になった方も多いだろう。海底に見事に描かれた砂の芸術に、最初の発見者は一種のミステリーサークルのような不思議な印象を得たようだ。つまり誰かが人為的に海底に描きあげたのではないかと疑われたのである。しかしやがて新種のフグが一週間かけて作り上げることが判明した。このフグのメスは、オスが作った出来栄えが見事なこのサークルをみると、引き付けられたようにその中心に陣取り、そこで産卵をするという。そしてオスはそのために必死になってこの作品を作り上げたわけだが、彼らは誰からも手取り足取り(ひれ取り?)教わったわけではないだろう。ある時期と条件が整えば、憑かれたように一心にこれを制作するであろうし、おそらく少しの誤差もゆるがせにしないだろう。少しでも歪んでいたり、対称性が損なわれていたりしたら、メスたちは他のオスのサークルの方に行ってしまうからだ。そして少しでもサークルの形がゆがみそうになっていることに気が付いたオスは、何か強烈な不安や不快感に捉われるはずだ。それはおそらくキャベンディッシュがやむをえない事情でいつもの散歩の時間をずらさざるを得なかった時の不安や不快感と同じような質を伴っているはずだ。
このアマミホシゾラフグほどではないにしても、ある動作にこだわりを持つというのは実は私たちのほとんどが多かれ少なかれ持っている性質と言える。部屋に入った時に正面にかかっている絵の額縁がわずかに傾いでいることに気が付いたとしよう。こだわりの強い人なら何となく落ち着かなかったり、苛立ったりする人の方が多いのではないだろうか。それでも他人の内の部屋なら見て見ぬふりをすれば済むが、それが自分のオフィスや自宅の居間であったら、さっそく「正しい位置」に直すかもしれない。同様に机の周りにゴミが散らかっていれば、すぐに片づけたいと思う人のほうがむしろ普通だろう。ところが同居人がそれを気にせずに散らかしっぱなしにしたり、逆にそれにいちいち注意を促す同居人に逆に苛立ちを覚えたりしたら、両者の共同生活はそれだけギスギスしたものになる。そして発達障害の人には、その種のこだわりを通常の何倍も持っている場合が多い。