2020年2月12日水曜日

いい加減さと揺らぎ 推敲 4


いい加減さと快楽

読者の中には次のように思う方もいるかもしれない。いい加減であることが人の心の基本的な性質である場合、そのいい加減さについて、当人はどのように体験しているのであろうか。本来いい加減な性格であればそれでもいいかもしれないが、きちんとしたことの好きな、几帳面な方にとっては、むしろいい加減であることは耐え難いことかもしれない。しかしいい加減さを耐えがたく感じる人たちは、ある意味ではかなり生きにくい人生を歩まなくてはならないであろう。と言っても生きにくいと感じるのは当人とは限らない。その周囲の人たちが苦労をすることになるかもしれないのである。この点は後にもう少し詳しく述べるとして、いい加減さは実は快適さにつながるのだということを述べてみたい。
大分昔、おそらく20年以上も前のことであるが、田口ランディ氏のエッセイに書かれていたことがいまだに尾を引いている。元の原文はどこにも見つからないが、彼女は「いい小説とは、それを読んだ後に、分からないという世界に放り出されるような小説だ」という趣旨のことを書いてあった。当時はなんて変なことを書くのだろうと思ったが、だんだんその通りのように思えるようになってきた。それが人間を描いたものであれば、人間がますますわからなくなる。しかしそれが不快さや混乱を招くようではいけない。それが強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならないのだ。逆に人間とはこういうものだという結論をポンと出しておしまい、では何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれないだろう。
「事実は小説よりも奇なり」という。イギリスの詩人バイロンの言葉というが、小説にも事実に似たいい加減さやユルさが伴わないと、嘘っぽい作り物という印象を与えてしまうだろう。私は心についても宇宙についても、ゲノムについても、脳についてもとても惹かれているが、それらに共通していることは、少し調べていくとどんどん分からなくなっていくところだ。それが人を引き付けるのである。そしていい加減さや揺らぎも、それは自分の人生の先が見えないながらもその予測不能さがある種の楽しみとして体験できることで、そこに味わいが生まれる。そしてそのような意味でのいい加減さは生産性に向かって開かれているのだ。
このこととの関連で先ほどのサイコロふりの話に戻ると、良質のいい加減さはおそらく創造性に結びついていくと考えることが出来よう。というのも何かを決めようと意図しないときにふとおきる行動や、ふと頭に思い浮かべる表象は、それ自身が何らかの論理的、ないしは美的な価値を持っている可能性があるからだ。
私たちは~すべきだ、という義務感に駆られるばかりの人生を楽しむことはできないものである。それよりは多少の手抜きや不注意が許容される方が居心地がいい。もちろん~すべきだに耐えられる人たちもいる。しかしそれはある種の不安や恐怖に駆られて、それを逃れるために~すべきという人生を送ることになる。その場合は「~すべし」に従うことで安全が確保される。そのつらさと引き換えにある種の保証が与えられるからそれを行っていることになる。ただしそのような人生にはおそらく創造や探求や新奇さへの刺激は望めないであろう。とすればいい加減であることを楽しめるのは、ひとつの能力、才能とさえ言えるかもしれない。