ということで津田先生の本に戻る。
彼が489ページで言っていることは少し過激で、どこまで彼の個人的な見解かわからない。要するにマインドフルネスとは、デフォルトモードと課題遂行モードの継時的な揺らぎ(行ったり来たり)ではなく、同時的な活動だ、という。揺らぎを否定されているわけで、私としてはちょっと承服しかねる。彼の主張はこうだ。マインドフルネスの状態では、デフォルトモードで興奮する、例の脳の正中線上のモヒカン、チョンマゲ部分だけでなく、外側に位置する背外側前頭前皮質などの課題遂行モードも同時に興奮しているから、という。しかし待ってほしい。私の考えは極めて常識的で、心は課題に集中してはボーっとするということを繰り返すはずだから、心は両モードを行ったり来たりするだろうというものであり、おそらく多くの識者はそれに賛成するだろう。そしてそれが素早く起きれば、脳の血流量を追っているfMRIは、両方の部分が光っているように映ってもおかしくないではないか!! 血流量の増加はそんなに瞬時には起きないと思うのだ。(ちなみに津田先生は、肝心のポージェスはマインドフルネスについて何も言っていないという。)
津田先生は490ページでは、そもそもマインドワンダリングという現象が両義的だ、という非常に大事な点に触れている。マインドフルネスとは、「今、ここhere, now」のその都度の瞬間に意識を集中せよ、ということだが、それはむしろマインドワンダリングを否定することにつながるという。この点は私もいつも疑問に思っていたことなので、ここでの彼の論述をかなり正確に追ってみる。ただしわかりやすいように口語調にしよう。
だいたいマインドフルネスのテクストを読むと、マインドワンダリングはよろしくないことのように書いてあるよね。例えばほっとけば心はフラフラと過去に向かってしまい、あれこれと昔のことを思い出したりネガティブな自動思考に捉われたりする。これは悪しきマインドワンダリングとも言えるだろう。そして自分の心がマインドワンダリングをし始めているのに気が付き、「イカンイカン」と呼吸への集中に戻すというのがマインドフルネスなのだ。でもね、マインドワンダリングは悪者に繋がっているだけではなく、創造性にもつながっているのだ。ボーっとしている時にふとある発想が浮かんだりするからだ。そうすると何も考えずに心をフラフラとさせるということが、心にとって重要ではないか。つまりマインドレスなマインドフルネスが必要なのだ。津田先生はこれを、now-here (今、ここ) とno-where (どこでもない)の、つまりハイフンの位置を一つずらしただけの両義性として表現している。カッコいい!
私はマインドワンダリングの究極の形は、「何も心に浮かべていない」時だと思う。その典型は、たとえば何かを思い出そうとしている時、目が宙空を彷徨ってはいても何も見ていない状態ではないかと思う。ちょうどPCが演算をしていて、ウィンドウズだと小っちゃい輪っかがくるくる回っている状態だ。ただしその時具体的に何かをサーチしているのであれば、それを思い出した時に終わってしまうわけだが、それこそ何も思い出そうとせずに思い出そうとしている状態、というべきだろうか。マインドフルネスだと、呼吸に注意を払うはずだが、別のことを考えそうになっている時に、イケないイケない、となるわけだ。しかし別のことを考えているというのは本当はマインドワンダリングではないはずだ。むしろそこから呼吸に戻った後がマインドワンダリングではないかと思う。なぜなら呼吸に戻ってもそれ自体はあまりに注意を向けすぎていて、すぐに盲点化されるからである。
みなさんは私が以前ちょこっと書いた「固視微動」のことを覚えているだろうか。通常の眼球は常にこの運動を行っている。つまり目は何かを凝視している際に、実は細かく揺らいでいて、それで初めて輪郭を捉え続けることが出来るのだ。じっと見つめるとすぐに像は失われてしまう。呼吸だってそれだけを考え出すとすぐに像を失う。するとそのあとはこのマインドレスマインドフルネスとしての本来のマインドワンダリングに移るのではないか、というのが私の説だ。