フロイトは徹底して科学者志向だった
フロイトのものの考え方は、ひとことで言えば、決定論的であったと言える。つまり物事は理論的に説明でき、それにより過去の出来事を解明することができ、また将来を予測することもできるという考えであった。もしそれができないのであれば、それはデータが不足していて、また十分な方法論が確立していないからというわけである。そしてそのような志向は当時の科学者が持っていた典型的なものであった。現在の科学者はもちろん決定論的な考え方を皆がするわけではない。それはある局所的な現象を考えるうえで前提とするだけであろう。ただフロイトが活躍した当時は皆そのような決定論的な考え方をしていたのだ。
特に1800年代の終わり頃は、ヨーロッパではいわゆるヘルムホルツ学派の考えがとても優勢だった。心も物理学や生理学の様な法則に従って展開していく、と考えがこの学派の特徴である。それはいわゆる「実体主義 positivism」と呼ばれる考え方だった。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
そもそもフロイトは、医者になるために医学部を選んだのではなく、あくまで自然科学者を目指していた。フロイトがウィーン大学で過ごした1870年代は、実証主義科学としての医学が確立した時期であり、フロイトの師となった医学者もそうした厳密な実証主義者であった。大学時代のフロイトは動物学の講義を熱心に受講し、フランツ・ブレンターノの哲学の講義に通った。医学生時代にフロイトが発表した論文はヤツメウナギの幼生の神経細胞に関するものであり、脊髄の微細な切片を顕微鏡で観察し、末梢からの刺激を伝える感覚神経がどのように脊髄につながっているのかを明らかにしようとした。それは根気強く丹念な手仕事を持続させる研究であった。そして、この論文の背景にはダーウィンの進化論があった。フロイトにとって進化論は観念としてあったのではなく、観察によってそれを実証しようとしていたのである。
フロイトが師事したエルンスト・ブリュッケはそのヘルムホルツ学派の代表の一人に数えられる生理学者であり、学界の権威であった。ブリュッケはそれ以前の生気論を否定し、生命体には物理、化学的な力しか作用していないという立場に立った。フロイトはプリュッケ教授からそうした生理学の精神を徹底的にたたき込まれていた。ブリュッケの講義録には、精神分析の根本につながる見解を見いだすことができる。また、生理学研究所におけるプリュッケの後継者エクスナーの考察は、ヨーゼフ・プロイアーに受け継がれ、さらにフロイトヘと継承される。こうした意味でも、ウィーン大学生理学研究所は精神分析の一つの始点であった。
婚約者マルタとの結婚のために科学者の道を捨てて精神科医になった後も、フロイトの決定論的な姿勢は変わらなかった。一方ではヒステリーというそれ自体が極めて予測不可能で科学的な解明が困難な病者と格闘しながら、他方ではヤツメウナギに見出したような神経細胞をいわば素子とした心の成り立ちを考えようとした。フロイトが1895年に試み、断念した「科学的心理学草稿」は、精神を科学的に説明しようとしたいわば最後の試みと言える。しかし心が理論的に説明でき、将来も予測可能であるという考えは、上述の夢判断の執筆のような試みにみられたのだ。
フロイトが科学的心理学草稿を書いていた時期はブタペストの耳鼻科医ウィルヘルム・フリースとの蜜月時代でもあったが、そこでフリースの考えだした周期説をフロイトは真剣に信じ込んでいたところがある。これは人間の活動を一種の周期により占う試みであり、いわば決定論の一つの典型的な表れであるといえた。フリースは生命現象全般には女性の性周期になぞらえた28日周期と男性の23日周期の二つがあり、その組み合わせで人間が健康になるか病気になるかが決まるとした。そして人間の生活はこの女性的成分と男性的成分の二つの要素のバランスで決定されるとし、それを『両性具有説』とした。フロイトの目にはこのフリースの説がとても科学的に見え、それを自分が発見しなかったことを悔やんだという。このように考えると、フロイトが夢の断片一つ一つに意味を見出そうとした意気込みもわからないでもない。