2020年1月25日土曜日

こころのデフォルト状態としての揺らぎ 推敲 3


デフォルトモードは瞑想状態なのか?

DMNの理解がいまいち進まないのは、いわゆる瞑想状態との関連が複雑だからだ。デフォルトモードでは、心はぼんやり浮遊していて、何事の焦点を定めない。その状態はまるで瞑想のように思える。ところが瞑想はこのDMN とは逆の活動なのだ、という説明によく出会う。瞑想にもさまざまな種類が提唱されているが、最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMN に向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされているのだ。
最近は脳科学の発展によりDMN に関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を論文等で発表するのだが、それらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の独自の理解である。
まず瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMN を高める瞑想といえる。そして洞察瞑想、あるいはマインドフル瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。
ここで私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。まずマインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。マインドフルネス瞑想でしばしば注意を向けるように促されるのが呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくのだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだ (Nakano et al. 2013)。
(Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.)


もしDMN が何らかの形で私たちの心的機能にとっての意味を持つとしたら(何しろ脳が使うエネルギーの75%を消費しているというのだから)TPN(課題遂行)はいずれはDMN に戻って行くという事になる。するとマインドフル瞑想が鍛えているのはこのDMN からTPN へのスイッチングという事になる。これは実は脳がDMN TPN の間を本来揺らぐものであり、その揺らぎの在り方をより心身にとってより良いものにするためのトレーニングという事になるだろう。
結論から言えば、DMN も課題の遂行も、どちらも心の働きとして必要であり、どちらにも過剰に流されず、両者の間を浮遊し、揺らいでいる状態が最も理想であり、それはある程度はいくつかの瞑想を組み合わせることで達成できるのである。