1. 逆方向の共揺れもある
私が以上に示したのは、共揺れの愛他的な現れ方であるといえる。日本の「ワンチーム」の戦いぶりに皆が熱狂し、トライを決めれば手を取り合って喜ぶ。皆が一つのことを喜び、そこにお互いの対立や葛藤はない。人間の集団の在り方としては素晴らしいではないか。
ところがここで目を転じてみる必要がある。日本人の皆が熱狂的に喜んでいる日本チームの勝利は、アイルランドの敗戦をも同時に意味するではないか。試合には勝者と敗者がつきものである以上、敵の側の敗戦、不幸や失望を私たちは一緒になって喜んでいることにもなる。そう、共揺れをして喜び合う私たちの姿が無条件で愛他的であるというのは部分的には幻想にすぎない。部分的、というのは特定の敗者が存在しない状況だっていくらでもあるからだ。最近アフガニスタンで治水に尽力し、不幸にもテトリスとの凶弾に倒れた中村哲医師の報道に接した。彼が行った灌漑作業でそれまでの乾燥した荒れ地が緑の農地に生まれ変わった。力を合わせてその作業に携わった人のおそらくほとんどがそれを一緒に祝ったであろう。この場合に敗者や犠牲者はおそらく存在しないと推測する。この場合とも揺れは愛他性を含むと言っていいだろう。ところが問題は、共揺れはだれかを犠牲にすることで、あるいは敵を作ることで最も劇的な形で生じるということを忘れてはならない。
このテーマになるとおのずと私の念頭にはここ数年の日本とアジアの隣国との関係が浮かばざるを得ない。愛国と嫌〇(この〇には相手国が入る)がイコールであったり、場合によっては嫌〇が愛国を盛り上げるといった事情がこれほど明らかにみられる例が私たちの身近にあるだろうか。実際にある集団が一番団結するのは、利害を共にするような状況が外敵に生じた場合である。ともに共通する敵を有するとき、人は一番まとまり、協力し合うのだ。このことは共揺れを志向する人間の本性が持つ影の部分といってもいいだろう。実際に政治の世界では国民の団結心を強めるために、仮想上の敵を設けるということを為政者は常に行ってきた可能性があるのだ。とするとこれだけ紛争の絶えないこの世界で一致団結する気概があるとすれば・・・・エイリアンの襲撃しかないのかもしれない。それこそ西欧社会とイスラム社会が連合軍を作ることだってあり得るだろう。