ところがDMNについて調べると、私たちは奇妙な体験をすることになる。それはDMNが脳にとって果たしていい働きをしているか、悪い働きをしているかという事がよくわからなくなってくることだ。DMNは私たちがボーっとして何もしていないようだが、脳の使うエネルギーの75%はその状態で使われていると言われる。つまり脳がスムーズに活動を行う上で常に準備状態にしておくという重要な役割を果たすことを、このDMN の発見者であるワシントン大学のマーカス・レイクルMarcus
E.Raichle博士が論じているのだ。(Marcus E.Raichle, ME (2010) The Brains
Dark Energy. SCIENTIFIC AMERICAN. (養老孟司, 加藤雅子, 笠井清登訳「脳を観る認知神経科学が明かす心の謎」の中で(日経サイエンス社、1997)
またDMNとは心がぼんやりして浮遊しているということであり、その状態はまるで瞑想のように思えるが、実は瞑想はこのDMNとは逆の活動なのだ、という説明にも出会う。最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMNに向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされている。
最近は脳科学の発展によりDMNに関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を明示する。しかしそれらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の理解である。
私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。ちなみに瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMNを高める瞑想といえる。そしてそれはマインドフル瞑想、あるいは洞察瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。
マインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。ここから表記を簡便にして、MM( = Mindfulness
meditation)としよう。MMでしばしば注意を向けるように促されるのが、呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくのだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだNakano
et al. 2013)。
(Nakano, T, Kato, M, Morito, Y,
Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the
default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.)
もしDMNが何らかの形で私たちの心的機能にとっての意味を持つとしたら(何しろ脳が使うエネルギーの75%を消費しているというのだから)TPN(課題遂行)はいずれはDMNに戻って行くという事になる。するとマインドフル瞑想が鍛えているのはこのDMNからTPNへのスイッチングという事になる。これは実は脳がDMNとTPNの間を本来揺らぐものであり、その揺らぎの在り方をより心身にとってより良いものにするためのトレーニングという事になるだろう。