揺らぐ心といい加減さ
本章では、心の揺らぎと「いい加減さ」について論じてみよう。ちなみに下敷きとなるのは、わが国の代表的な精神分析家である北山修氏の一連の考察である。そこに出てくるように、この章では「揺らぎ」ということの心理学的な意味を考えてみよう。「いい加減さ」とは何かユルいテーマのように感じられるが、決していい加減なテーマではない、という事を最初に申しあげたい。いい加減であることは実は人の心のあり方の極めて重要な特徴である。ただし本章の目的は北山理論の詳しい説明ではなく、いい加減さと揺らぎとの理論的な関連を北山理論を手掛かりにさらに推し進めることである。
北山の「いい加減さ」の理論は極めて多岐にわたっているが、まずは言葉の定義からである。彼は「いい加減さ」として「あれかこれか」の二者択一でも「あれもこれも」という欲張りでもない状態と述べているのが興味深い。ここで「あれかこれか」、という姿勢を「AかBか」と、「あれもこれも」を「AもBも」と言い直しておこう。いい加減さはこの二つの間を揺れ動く状態ということが出来る。しかしこれは具体的にはどういうことなのだろうか?
一つ言えるのは、この「いい加減さ」はどちらにも決めかねて揺らいでいるという消極的な姿勢ではないということだ。むしろ積極的に、両者の間を漂っている状態とも言えるだろう。タイミングや文脈によってはAかBのどちらかの選択をする用意を持ちつつ揺らいでいる状態といえるでしょう。それはどうしてだろうか?
そもそも私たち人間の生きた体験とは、各瞬間に小さな二者択一を常に迫られているようなものだ。AかBか、という大げさなものではないにしても、「aかbか」くらいの選択は始終行っている。生きるというのはそういうことなのだ。毎日朝電車に乗り通勤するときのことを考えよう。目の前に三つある改札口のどれかを選んで通っていかなければならない。ホームに下りると発車間際の電車に飛び乗るか、それともあきらめるかの選択がある。いざ電車に乗っても、今度は目の前に空いている席に座るかどうかの選択がある。その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に取りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。
しかしこのような小さな選択をくり返している私たちはさほどそれを苦痛に感じたり、頭を悩ませたりしないはずだ。というのも私たちは生命体であり、生命体は常にAかB化を選択することで生命を維持し、種を保存してきたからだ。つまり次のことが言えるのではないか。
「いい加減さとは、各瞬間に、必要に応じて選択できることだ」