2019年11月14日木曜日

コラムは揺らいでいる 6


ここまではカレーが勝ったという想定で論じたが(しつこいようだが、別にハヤシでもいいのだが)、なぜそうなったのであろうか? 実はここは心を考えるうえで一番謎めいた部分なのである。つまりテリトリー同士の争いの勝者は何を獲得するのか、という点が難しい議論だ。その答えを私たちは知っているのであるが、なぜそうなるかはわからない。しかしとりあえずその答えを示すとしたら、それは「快」である。つまりあなたがカレーを食べることを想像することがより快を体験することにつながったからである。心のダーウィニズムは、より本人に快を感じさせるものが勝利を修めるという法則に従うのだ。では何が快を感じさせるのか。それよりもそもそも快とは何か。それが大問題なのかについては、私が一昨年に出版した著書(「快の錬金術」)にも書いたものである。大雑把にいえば、それがその個体の生存可能性を高めるような体験には、この快が結びつくということになる。この点について私は以下のような内容の文章を書いた。
そもそも線虫がダーウィンの原則に従って生き残っていくとしたら、そこにはどのような条件が整っているのか。その線虫は格別に力が強く、他の線虫との戦いに勝つかもしれない(体長わずか1ミリ以下の線虫同士の格闘、もつれ合っての腕自慢など想像もできないが、おそらくそんなことも実際にあるかもしれない)。あるいは頭脳明晰で、敵の裏をかいたり、だましたり出来る線虫もいるかも知れない(まさか!) しかし何よりも重要なのは、その個体の生存にとって必要なのは、自分にとって有益なもの(餌匂い?)に向かって突き進むことが出来ることであり、また危険を巧みに回避するからだろう。つまり栄養豊富な餌を摂取した時に強い快を体験し、危険へ強い嫌悪を体験するような個体だ。快に向かい、不快を回避する。その結果としてそれをよりよくなし得た個体が生き残っていく。
しかしこれは考えると何となく理屈に合わない。線虫の個体は、どうして自分が快を感じるものが自分の生存の可能性を高めることを知っているのだろうか? おそらく論理が逆なのである。生存可能性を高めるものを快と感じられる個体が生存していくのだ。
話をわかりやすくするために、線虫があるAという物質を摂取した時に、それだけ生存率が上がる、と仮定しよう。もちろん線虫はAを美味しい(快感を味わう)とは体験していないかもしれない。しかしAという物質に対してより積極的に向かっていく個体が生き残るとしたら、その線虫は「主観的」にはAを美味しいと感じている方がはるかに合理的である。でもこの快は必ずしも必須ではない。線虫が快を体験している時その神経系はある状態に置かれる。それは非常に特殊な状態で、線虫の行動はその状態を再現するためには他のあらゆることを犠牲にするのである。これを自然が生物一般に与えたある種のポジティブな意味でのアラーム装置と考えてもいい。それはドーパミンという物質により作動する装置で、それがその個体が生存する確率が高いものに対して、主観的には快として体験されるような中枢神経系の状態を作り出すのだ。そしてそのアラームは、線虫にとって体にいいものにより鳴り響くように仕組まれているのである。
この様に考えれば快というのは全くの幻であっても構わない。快もたとえば薔薇の赤い色、と同じようなクオリアであるとすれば、その実体はなくてもいいことになる。ただそれにしては生命体には報酬系というアラームシステムがなぜかしっかり備わっているのであり、そこに何らかの実態があるような気がしてしょうがないと私たちは思う。しかしこれも証明のしようのない話だ。
結局私が言いたかったのは、ダーウィン的な適者生存とは、生命体に関しては(いちおう自ら運動することのない植物は除外しておこう)報酬系が機能することで成立するという事である。ただしもちろん、ちゃんと機能する報酬系でなくてはならない。たとえば痛み刺激を快に変換してしまうような報酬系を持つ生命体は、早速自らを傷つけることで、あっという間に滅んでしまうのである。あるいは麻薬により強烈すぎる快感を味わう場合にもその個体は身を持ち崩しかねない。しかし大まかに言ってその個体の生存にとって一般的に有効なものを快と感じ、その逆を不快と感じるような個体は、それだけ生存競争を勝ち抜くと考えていいだろう。