2019年10月6日日曜日

共に揺らぐこと 2



「他人と一緒に喜ぶこと」を志向する人間の本質を言葉で表したい。いろいろな呼び方があるではないか。人間の本質を言い表すために、ホモ、なんとか、という呼び方が。人は遊ぶ存在である、という意味ではHomo ludens, 遊戯人(オランダの歴史学者のホイジンガ―) を思い出す。

こんなリストを見つけた。
Homo sapiens, 英知人
Homo phaenomenon, 現象人
Homo noumenon, 本体人
Homo faber, 工作人
Homo patiens, 苦悩人
ラテン語でなんていいかわからないが、ホモ「一緒に喜ぶ人」という言葉を作りたい。
そんな折、先日ラグビーワールドカップで、日本チームが競合で優勝候補のアイルランドに劇的な勝利を収めた。今夜はサモア戦にも勝利!テレビでも何度も放映されたが、そこには実際のラグビーの試合におけるタッチダウンの瞬間の映像よりは、それを見ていたパブリックビューイングの観客の歓喜の表情の方がはるかに多く放映されていた。視聴者もむしろそちらの方を見て感動しているというところがある。人は一緒になって喜んでいる他人の反応を見るのが好きなのだ。そしてそこには明らかに交互作用がある。相手の反応を見てこちらも盛り上がる。そしてそれを見た相手もさらに盛り上がるという増幅効果だ。ただしそれを一人でテレビで見ていてもうれしいということは、その一緒に喜んでいるという感覚をテレビを通して共有できるからだ。
ということはラグビーで人が感動するのは、「ラグビーで日本が勝利をおさめたこと」というよりはラグビーでの日本の勝利を一緒になって喜べること」なのだ。思考実験をしてみよう。あなたはアイルランド人の集まりの中に何らかの理由で紛れ込んでいたとしよう。そしてそこでのパブリックビューイングで、日本の勝利、すなわちアイルランドの敗戦を目にして人々が落ち込むのを見て、それでも「やった、日本が勝った」と楽しめるだろうか。もちろんそんな筈はない。早くそこから抜け出して、喜びをシェアできるような日本人の群れを探すだろう。そして「ラグビー? 試合があったことさえ知りませんし、興味ありません。」という日本人と出会ってもすぐスルーして、とにかく「一緒に喜べる日本人」を探すだろう。うーん、やはりどう考えても人は誰かと一緒に喜びたいのだ。
このように考えるとやはり、人は「合理的経済人」のようには決して捉えられないということがわかる。というよりはそのような側面と「一緒に揺れることを求める」という本質とのはざまに人は存在すると考えた方がいい。そしてもちろん人を最終的に動かすのは、その人が持っている報酬系の興奮である。他人の報酬系が興奮することそれだけでは、あなたの行動に何らの影響も及ぼさない。そしてこのことが、人間は合理主義的で自己中心的な存在でしかないという誤った考えを生み出すのだ。人は自分の報酬系の興奮により動く。それはそうだ。しかし自分の報酬系はかなり他人の報酬系と連動しているところがある、という部分が重要なのだ。
本書のテーマは揺らぎである。揺らぎとは将来の予測がつかないことを特徴とする。しかし考えてみれば、揺らぎの大きさは、どの程度共鳴、共振する他の揺らぎの数が多いか、あるいはその振幅が大きいか、ということにもよる。例えば地面が揺れる。あちこちでそれぞれが別々に、それこそ震度1以下で揺れているとしよう。ところが何か所かが一緒に揺れはじめる。そしてそれが時々ではあるが、とてつもなく広がっていくことがある。共振の範囲が突然広がっていくのだ。そしてそれが様々な規模の地震につながっていくというわけだ。