揺らぎはおそらくシステムの統合に寄与している
ここで一つの仮説を設けることが出来る。それは揺らぎのおかげで私たち生命はシステムとして成立しているという事だ。システムとひとことで言ってもあまり意味が通じないが、要するに情報を蓄えることのできるような仕組み、という事だ。その中で情報の交換ができ、新しい組み合わせが生じるようなシステム。それでこそ複雑な生命体という組織が組みあがってくる。
情報をやり取りする仕組みとしては、中枢神経系はその最たるものだ。人間の場合1000億の素子、つまり神経細胞が存在し、その一つ一つが、他の数千~数万の神経細胞とのつながりを持っている。脳は巨大な網目状の構造をしていて、そこを様々な情報が行きかう。ところが中枢神経系のように実際の情報伝達の網の目が存在しないようなミクロのレベルでは、おそらく揺らぎのおかげでそれが代行されている。それは分子レベルでの揺らぎなのだ。すでに出した例だが、私たちが風邪をひいてアレルギーの薬を飲むとき、薬の分子一つ一つがうまくヒスタミンのリセプターにうまく出あうことを私たちは祈るだろうか。薬の分子とリセプターは神経線維のような連絡網によって結ばれているわけでもないのに。でもその心配はない。その両者はほぼ確実に出会うのだ。体内に入った薬は、血液の流れに乗って体の隅々に送られた後は、自分自身の高速の揺らぎでリセプターに到達するのである。
分子の発見につながったのも揺らぎだった
ところで物質が基本的な要素によって成立しているという事を発見したのは誰だろうか? 科学史に多少なりとも詳しい人ならご存知と思うが、それはかのアルバート・アインシュタインである。アインシュタインが特殊及び一般相対性理論の発見者であることは常識であろう。しかし彼がノーベル賞を受賞したのは、相対性理論ではなく、いわゆる光電効果についてのものだった。光電効果とは光がある種の粒子としての振る舞いをすることであり、その発見に賞が与えられたのだ。しかしさらに知られていないのは、アインシュタインは水の分子の存在を実証して見せるという業績もあったということだ。
20世紀の初めに、ロバート・ブラウンという植物学者がいた。彼はある時水に浮かべた花粉を顕微鏡でのぞくと、それがプルプルと細かく振動していることを発見した。それは水に落としで沈んでいく墨汁の細かい粒についてもいえた。「ブラウン運動」の発見である。しかしブラウン自身にも、当時の学者にもそれが何を意味するかは分からなかったので放っておいた。そう、人は理由のわからないことは無視するのである。しかしアインシュタインの炯眼はそれを放置はしなかった。それについてアインシュタインが出したのは驚くべき理論だった。それは水の分子が花粉やインクの粒に周囲からぶつかっているからプルプルと揺らいでいるのだ、というものだった。
しかしどうしてアインシュタインはこの発想に至ったのだろうか。それはおそらく彼が物質の本質としての揺らぎを捉えていたからであろう。だってそうではないか。彼が水の分子が静かに漂っていると想像していたなら、小刻みに揺れる花粉や炭素の粒を見て、「ほら、水分子のせいだ!」などと思いついただろうか。ただし彼が花粉そのものの揺らぎではなく、花粉を取り囲んでいるが顕微鏡下では識別できない大勢の水分子の揺らぎを見たのは天才的と言えるだろう。
揺らぎ、振動が物質の本質、というのは言い過ぎに感じられるだろうか? たとえば水の分子が振動しているという事は、水の分子の特徴の中で本質的なものといえるだろうか? そうとしか言えないのは、その振動がその水のありよう、あるいはエネルギーの伝達の媒体となっていることを考えれば納得が行くだろう。水はその振動の大きさにより、気体、液体、個体のいずれの形をもとりうる。そしてその振動の大きさによりそのエネルギーを他に伝える。もちろん水だけではない。物体のすべてがそれによりエネルギーのやり取りをしている。そして揺らぎの本質は、実は物質を細分化していくにしたがって大きくなっていく。光子ともなると質量がなく、波動だけの存在となる。とはいえ粒子としての性質も持つという事でもう私たちの常人の理解を超えているわけだが。現在提案されている素粒子も、その最終形として提案されている超ひも理論などは、質量はなく、長さと振動だけの性質を有しているとされる。こうなるともっとわからなくなるが、一つ注目すべきなのは、物の本質は、それを細分化していくと最終的には、その揺らぎという形でしか残らないというのが象徴的だ。