2019年10月13日日曜日

はじめに 推敲 3


偶発性という名の揺らぎ

揺らぎの未来を予想できないということについて、ある私の思い出話を披露したい。人は驚いたりつらい思いをした体験は、結構いつまでも覚えているものである。私が30歳代の前半のころ、アメリカの精神科のレジデントとなって夜の当直をしていたときの話だ。レジデントはまだ見習い中の医師のレベルなので、月給も安く、それだけに当直は結構な臨時収入になった。週に一度、月に4,5晩の当直をし、それを給料に加えることでようやく生活に余裕が出来るという感じだった。それでレジデントたちが分担し合って総合病院精神科の当直を行っていたわけだが、これは結構緊張する体験でもあった。
大きな総合病院のER(救急治療室)には多くの内科、外科の患者に交じって時々精神科の患者が訪れる。その多くは自殺企図や深刻な自傷行為のためにERに送られてくるが、中には状態が重いために入院が必要になる。その場合は空きベッドがある限りはその総合病院の精神科に入院となる。その場合はアセスメントから診断の決定、投薬の開始、入院の手配まで、おそらく一人の患者に2時間は優にかかる作業が当直医を待っているのだ。当直医は当直室でそのような呼び出しが救急室からくるのを待っている。もし運がよければ精神科の患者は訪れることなく、備え付けのテレビでもゆっくり見ながら夕刻5時から翌朝8時までの15時間の当直帯をゆったり過ごせる。睡眠も数時間は取れ、読書もできてテレビも見れて、当直代も受け取り、「ラッキー」と呟きながら翌日の業務につくのだ。ところが大抵は夜間に一人、二人の精神科の患者が現れ、24時間はそれに費やされることになる。
問題は夜中の急な入院で、例えば夜中の2時に突然救急室からの電話があり駆け付けると、やっと眠りに就いた頃に起こされて明け方の4時までは入院作業を行わなくてはならない。そして当直室に戻っても追加のオーダーなどの電話がかかることもあり、ほぼ徹夜の状態で翌日の通常業務につかなくてはならない。当直をもっぱら引き受ける精神科のレジデントにとって最も恐怖なのは、数件の入院の業務をすることで夜中じゅう全く休みが取れずに翌日の通常業務に就くという最悪なパターンだ。当直帯に入るまでにすでにその日の仕事の疲れがたまっているから、それから休む暇もなく徹夜をして仕事をし、翌日も夕刻まで仕事をするというのはかなりの精神的、身体的なストレスを伴う体験ともいえる。
当直医はうまく行ったら安楽に過ごせるかもしれず、しかしいったん電話が鳴ったら地獄に突き落されるような(実に大げさな表現で、救急に来られる患者さんに対して他意はないが)状況で、それこそ息をひそめながら過ごすことになる。救急の患者さんの受診のパターンは本当にバラバラで予想が付かない。平均一晩に1.5人の入院がある、と一応データは取ってあり、そのくらいの労働の「覚悟」は出来ているが、例えば2人すでに入院業務を行ったということは、もう3人目が訪れない、という保証はどこにもない。
ある時一学年上の精神科のレジデントのジョンが、夕刻の当直の始まりである午後5時に救急室に様子を見に行っていたら、すでに7人の精神科の入院予定者がドアで列を作っていたのを知り、「首を吊りたくなった」という「事件」があった。そしてそれがメモリアル・デー(米国の戦没将兵追悼記念日、通常は5の最終月曜日)の翌日だったために、メモリアル・デーの翌日の精神科の当直はやばい、という都市伝説が生まれたのだった。おかげで翌年の該当日はどのレジデントも当直を引き受けることを嫌がって大変だったわけだが、その日には一人も入院がなく、入院患者数とメモリアル・デーとはおそらく無関係であるということが判った。
私が面白いと思ったのは、人間はそういう時あらゆるジンクスを駆使するのだが(例えば、もう2人来たからこれ以上は来るはずがない、とか、12時まで全く入院がなかったから、これから明け方までに必ず一例はあるはずだ、とか、ハラハラして待っていれば逆に来ない、等・・・・) 現実は全くそれに従わず、予想外に(予想外のことが起きるだろうという予想も含めて!) 様々な出来事が待っているということだった。そしてその入院件数を長い目で追ってグラフにでも書いてみると、おそらくそれは決して平たんではなく、何らかの波が、揺らぎが見えてくるはずであろうということだ。
なんだかここに至るまでに長い解説が必要になったが、結論は実はシンプルなのだ。おそらくは偶然の産物で発生する精神科救急は、次にいつ訪れるのかが全く予想がつかないものなのだ。昨日はゼロ人、今日はいきなり4人、ということはざらにある。そしてこれが揺らぎの実際の姿なのだ。ただしそれにもかかわらず、私たちはそこに何らかのパターンを読み、心の準備をするのに必死なのだ。そして極まれに、何らかの「原因」が本当に存在したりする。上級生のレジデントのジョンが絶望的になった年は、実は本当にメモリアル・デーにかかわる事情があったのかもしれない。そうして何らかの原因を常に考える癖のついている私たちには、揺らぎの本質として存在する偶発性の姿が見えにくくなっているのだ。
ただしここで揺らぎの本質は偶発性だ、と言われても読者は少しもピンと来ないかもしれない。それについて説明する前に、もう一つ似たような現象としてニュースになったものから例を取り上げてみよう。