2019年9月10日火曜日

フェレンチ再考 2

ここでフェレンチの性格について言うならば、非常にあたたかく、子供っぽく、愛情深く、そして人からの愛情を求めていた。フロイトとは9週間に満たない分析を受けていたが、もっとしてほしく、特に自分自身の持っている陰性転移を扱ってほしいと考えていたという。そもそも人は本当の意味で陰性転移を扱うことは無理ではないか、というのが私の極論だが、それはともかくフェレンチは実はフロイトを分析したかったのではないかというのが識者の認識らしい。彼はフロイトの陰性逆転移を解釈し、そうすることで自分を分析し、受け入れてほしいと思ったらしい。ここら辺はフロイトをうんざりさせていた可能性がある。そして極めつけは1932年の Wiesbaden の国際分析学会で読んだ「言葉の混乱」の論文であった。今度はフェレンチは自分の理論をわかって欲しいとフロイトに食い下がるようなところがあったが、フロイトはもちろんそれを受け入れようとしない。そうこうしているうちにフェレンチの死期が迫ってしまったというわけである。フェレンチが総合分析までして到達したかったのは何か? 彼は人との心の通い合いについて、ある種の理想を追求していたのか? そしてそれはあまりに非現実的だったのか? 
この Wiesbaden 前の最後のフロイトとの会見では、フロイトはフェレンチを、フェレンチはフロイトを、お互いに自分に対して冷たい表情や態度だと表現しているAron,Harris, P9)。結局フロイトはフェレンチを反逆者と見なし、自分の死を望んでいるとまで考えたらしい(彼はユングにもそれを思っていたわけである)。
この事情に関するAron, Harrisの解釈はうなづける。まず彼らは、フロイトが死去したフェレンチに向けた弔意を表した手紙を受け取ったジョーンズが、その部分を公表しなかったことについて触れている。フロイトはフェレンチが最終的に被害妄想にとらわれたこと、彼は愛情を望んでいて、結局フロイトによっても愛されたいと望んでいたのだ、と結論付けている。それにたいしてAron,Harris はこのフロイトの診断的な見解に留まらない意味がフェレンチの人生はあったと論じる。つまりこれでは転移の産物になってしまっているのだ。
Aron たちの著作が強調しているのは、フェレンチの症状は、ビタミンB12欠乏にいよる悪性貧血としての身体症状funicular myelosis (亜急性連合性脊髄変性症)はあっても精神症状、増しては狂気ではないという証言が、いろいろな人から得られているという事だ。つまりフェレンチは狂気に駆られていたというジョーンズの記載は過ちだったという事である。