さてそのようにして始まった相互分析では、フェレンチはサバーンに対する怒り、畏れ、嫌悪などの否定的感情を語ることになる。そしてそれを聞いたサバーンの反応も、自分自身がそれまで控えていた感情を伝えるというものだった。そしてそれなりの相互性が成立したかのように見えた。もちろんこのような関係が長続きするわけはないが、このプロセスでフェレンチは自分自身の過去の問題が、サバーンへの嫌悪感の一部を占めていることに気が付いたという。そしてその治療のためにフェレンチを分析する側のサバーンにも苦痛が体験され、またどうしてフェレンチを分析する立場の自分が料金を支払っているのか、という疑問が生じた。こうしてサバーンは自分のほうも料金を受け取る必要があるという要求を行ったという。
しかしともかくもこのサバーンとの関係からフェレンチに見えてきたのが、子供への性的な攻撃、性的外傷がいかに重い意味を持つかということだった。そしてこれがフェレンチが「言葉の混乱」に表されたモチーフに向かう大きなきっかけであったという。
さてそれから相互分析は最終章を迎えることとなる。フェレンチの晩年の、すなわち1932年10月から翌年2月までは体調がある程度持ち直し、最後の奮闘を行うことになる。フェレンチはサバーンに一度は中止した相互分析の再開を提案したという。そう、フェレンチの方から提案したのだ。しかしここにはマゾキスティックな雰囲気が漂う。そしてフェレンチの衰えにより、サバーンの状態はさらに悪化した、とある。分析を止めてブタペストから去るという可能性について、サバーンの方から持ちかけても、フェレンチの方から話題を逸らしたという。そして森先生が書くには、フェレンチは行き詰ったこの分析について他言しないようにとサバーンに求めたというのだ。ここまででサバーンとの治療は8年間にわたり、いまだ多くの症状を彼女は抱えたままだったという。2月にパリで再会したサバーンの娘は母親のひどい状態に驚き、フェレンチに厳しい手紙を書いたという。その後もトンプソンやミラーなどの分析の患者は残っており、彼自身もがんばったが、とうとう4月からはベッドから起きあがれなくなった。そしてフェレンチはついに5月22日に、60歳を前にして亡くなったという。(今の世なら、ビタミンB12による治療で回復したのに、と思うと残念だ。)