2019年9月14日土曜日

フェレンチ再考 4

ところでAron, Harris が強調しているのは、フロイト・フェレンチ関係において、フェンチは後の精神分析に向けて極めて重要な問題を提起しているという事だ。経験か洞察か、主体性か理論か、共感か解釈か、二者心理学か一者心理学か。もちろんフェレンチはこれらのうちそれぞれ前項を強調する立場だ。そしてそこにはさらに深い問題があった。フェレンチはフロイトの患者に対するやや蔑視的な態度にいら立ちを覚えていた。たとえばフロイトが「患者は rabble だ」と言ったことを問題にしたという。この rabble という単語、どうも意味がつかめない。辞書的には「暴徒、やじ馬、大衆」などと出てくる。それほど悪いニュアンスはないが、まあリスペクトに欠けるというところか。もちろんフェレンチもフロイトから同じように思われていたのではないかという事を気にしていたのだろう。そしてフロイトはいつも自分は正しい、という姿勢を崩さない。それに対してフェレンチは、そういうフロイトを変えようとして、なんと「先生、私が先生を分析いたしましょう」と申し出たわけだが(A,H, p16)、プライドの高いフロイトが受けるはずもない。もちろんフェレンチにとっては悪気があろうはずはない。先生も分析を受けることで一介の市井人となって私たちのもとに下りてきてください、というわけだ。これはフェレンチにとっては当然の発想だったが、フロイトにとってはとんでもないという事になる。これではフロイトにウザがられるのも仕方ないというべきか。
ところでフェレンチの功績として Harris たちが挙げているのは、逆転移を必ずしも病的なものとは考えないという姿勢である。これはフェレンチが始まりと書いてある。そして後にウィニコットなどを通じて広がって行ったという事だ。この流れで言えば、フロイトは逆転移は病的なものであり、自らに逆転移が存在するという事は受け入れなかったという事になる。フロイトはその意味では「精神分析以前」の状態であったと言える。
ところで技法上フェレンチと同様フロイト流の精神分析に反対していた同時代人は言うまでもなくオットー・ランクである。彼らはベルリンでアブラハムやザックスのフロイトの教えを守るべし、という影響を嫌っていた。そのランクとフェレンチは、彼は理論的なことではなく、まず実践を重んじた。フロイトがだんだん分析家の卵たち(すなわち一応は社会適応を遂げた神経症レベルの患者達)を分析したのに比べ、フェレンチはあくまでも重い患者さん、BPD の患者さんの治療に徹したのだ。
フェレンチが治療論を展開していったプロセスは私にもとても納得が行くものである。彼は要するに精神分析的な手法がいかに迅速に効果を発揮できるかを考えた。最初は患者にフラストレーションを与えるという事をもっと迅速にやろうとした。いわゆる「積極療法 active technique」というわけだが、これを試みた気持ちはよくわかる。私も精神分析を学び始めた時は、治療者の受け身性や中立性、ほとんど応答をしないという態度が患者のフラストレーションを助長するという事が、実は治療の決め手になるのだという印象を持ったが、フェレンチも当然そう考えた。ところがこれがうまく行かないことに気が付き、今度はその逆へと向かった。ここら辺がフェレンチの極端で向う見ずなところだ。そしてその後彼は弾力性 elasticity つまり積極療法と弛緩療法の間のバランスを考えるようになった。これも素晴らしい考えだ。