2019年8月28日水曜日

書くことと精神分析 推敲 4


商品としての著作
今回の発表で二番目のテーマとして取り上げたいのが、著書が持つ商品としての意義についてである。著書が博士論文やその他の学術論文と決定的に違う点は、それが商品として店頭に並び、一般的な経済原理に従って扱われるという現実があるという点である。率直に言えば、著作とは違って学術論文は売れ行きを一切考える必要がない。極端な場合は、学問的な価値が非常に高い論文も商品価値が全くないという事が少なくない。
学術論文の価値は、それが専門家集団の中でどの程度評価され、話題に上り、引用されるかにより決まる。それに比べて著作は商品として売れること、すなわち専門家を含めた一般の読者によって一定数以上購入されることが必要である。無論売れる著書が同時に学問的な価値を伴っていれば申し分ないわけであるが、そこに多少疑問があっても、売れさえすれば許されるという面がある。(ただし自費出版の場合には全く異なる話となり、ここではそれは除外して考える。さらには著者が一部を買い取るという条件で出版される場合も結構あるが、これもここでの議論から除外すべきであろう。)
そこで商品価値のある本、つまり売れる本とはどのようなものだろうか。書店の専門書コーナーには多くの著作がひしめいている。読者はその一冊を手に取り、パラパラとめくって、比較的短時間で購入するかどうかを決めていく。多くの場合は手にとってほんの数秒でもとの本棚に戻される。その時読者はそれをサラッとめくって二、三行読んで自分の興味や心地よさを刺激されるかどうかを調べる。時には本の装丁を見て最後の決断をしたりしている。いわば五感を用いて本の味見をするのだ。そしてそれが誰が手に取ってもすぐに本棚に戻されるようであれば、著書としての生命はかなり危ういということになる。結果として初版を売り切ることもできず、場合によっては出版元の倉庫で眠っていて、一定の時期を過ぎると裁断の憂き目にあう。裁断とは著作の初版の売れ残りが倉庫の一定の面積を占めることによる損益が大きいために、機械で切り刻まれ、資源ごみとして出されることである。私はそれをひそかに「著作の処刑」と呼んでいる。長い時間と労力を費やし、出版社の期待を背負って世に出た著作が受ける処遇としては、これほど悲惨なことはないであろう。
もちろん出版社もそのようなことがないように、初版の数から調整する。まずどう見積もっても数百部だろうと考えると、それを初版の部数として印刷し、ともかくも数年かけて売り切ることを考える。運が良ければ初版が何年か後に売り切れ、再版がかかる。詳しい出版事情は分からないが、大体初版を売り切って再版がかかることで、著作としては採算が取れたと考えて著者は胸をなでおろす。少なくとも出版社にとっては赤字になって迷惑をかけることを意味し、それを回避できたことでこれからも声をかけていただけるという期待が持てるからだ。
この様に本を書くとはそれが商業的に売れるかを真剣に考えながら行う作業なのであり、具体的には、編集者に出版を引き受けてもらえるかが命の分かれ目なのだ。そしてそこに、著作と論文の決定的な違いが生じる。編集者は常に頭の中で算盤をはじき、一般の読者に手に取ってもらうだけでなくレジに向かってもらえるかどうかを判断する。その際の目安は、その著作が一般の読者目線になった編集者にとって「面白い」かということだ。それに比べて論文は著者の専門分野における独創性、すなわち学問的な価値がなくてはならない。そして後者については、普通の意味で「面白く」なくても構わないのである。
例えで私がよく思い浮かべるのは、数学の論文である。歴史的に有名なポワンカレ予想は長年数学者たちを悩ませていたが、2002年にロシア人の数学者グレゴリー・ペレリマンがそれを証明したとする論文を発表した。しかしその論文を読んでそれが正しいかどうかを判定する数学者がごく限られ、4年の歳月をかけてようやくその証明の正しさが確認されたという。
もしこのペレリマンのポワンカレ予想の証明が、専門誌に投稿される代わりに、薄手の著書として出版されていたと仮定しよう。まだその正しさが確定せず、またその内容を理解できると感じる人が世界中で数人の数学者であるとしたら、書店で手に取った人はパラパラとめくっただけで、聞いたことのない著者のチンプンカンプンなその本をほぼ確実に本棚に戻してしまっただろう。こうして学問的には最高レベルの価値を持った著書は、その商品価値はゼロに等しく、その初版のほとんどが裁断の憂き目にあうことは保証されているようなものだっただろう。
さてそこでどのような本が売れるのか、ということについてである。これについては、そもそもよく売れる本を書いたことがないという自負がある私にも、少しは分かっているつもりである。それではどうして売れる本を書こうとしないのか、と問われるかもしれないが、それを書けない複雑な事情もある。そのことについても後に書いてみたい。