2019年8月29日木曜日

書くことと精神分析 推敲 5


どうして売れない本を書き続けるのか

私は専門書をもう二十冊以上書いているが、ほんの一、二冊を除いては、売れたためしがない。といってもそこそこには売れているらしい。つまり裁断の憂き目にあったものはおそらくまだないし、初版は長い年月をかけても大体売り切っているようである。つまりその本を出したことで赤字になり、出版者様に損失を与えるということは、あってもせいぜい一、二冊だと思っている。
しかしこれほど売れない本ばかり書いていると、私なりに、どのような本が売れるか、あるいはどうして私の本が売れないかは大体わかっているつもりだ。ではどういう本が売れるかといえば、私の本ではないような本だ。私自身が自分の本によく似た誰かの著作を本屋で手に取ってパラパラとめくってもレジに向かいたくはならないと思うからだ。つまり私は自分が読んでも面白くないような本を書いている、あるいはそれしか書けないという意味では確信犯的といえる。
それは私自身が買いたくなるような本とはどのような本か。文章が読みやすく、そして内容が興味深く、読んで「勉強になった」「新しい知識を身につけることが出来た」などと感じられそうな本だ。そんな本は手に取って「この本を帰りの新幹線の中で読もう」という気持ちになる。そしてここが重要なのだが、それらの面白い本には、著者の創造性や新しいアイデアなどが盛りたくさんというわけではないということだ。どこかで耳にしたような事実や理論が、わかりやすく頭にスーッと入ってくるように書かれている。つまりカタい学術書というよりはむしろ、もう少し砕けた一般書に近い本なのだ。
もちろんそれらの本に独創性、オリジナリティがないというわけではないだろう。読んで面白く、どんどん読み進めたくなるような本には、そこに書かれた過去の理論や研究を貫く斬新なモティーフが感じられるであろうし、それ自身が著者のオリジナルな部分と言っていいだろう。しかしページを開くたびにその著者のオリジナルの概念や用語が現れ、しかも学術的な用語が濃縮されて展開されているような本は鬱陶しく、読んでいても疲れるだけである。むしろそのようなオリジナリティが皆無であっても、読み物として面白い本はたくさんある。だからノンフィクション系の本の中には「○○編集部」が作者になっていて、出版社や放送局の非専門家のスタッフ、ないしはライターが読みやすさを重視しつつ本を作成することがあるが、専門家が書くよりかえってよく売れるという現象が起きる。
このように「面白い本」とはどのような本かを考えた場合、私が書いた本の多くがなぜ売れなかったかがよくわかる気がする。私はこのような意味で「面白い本」を書こうと意図したことはあまりないからだ。私はあくまでも「自分で書いていて面白い本」を書いているだけだ。私はすでに誰かが書いたことをまとめ直すことは得意でもないし楽しくもない。むしろ全編オリジナルで行きたいのである。つまり私が書きたい本は結果的に、本屋でそれを手に取った人が「まったく鬱陶しい本だ」という反応を起こすような本になってしまうのである。それがわかっていても頻繁に出版社にアイデアを持ち込んで出版していただいているのであるから、繰り返すが私は確信犯なのである。
結局私は自分自身を、売れない文学作品を書き続ける「自称小説家」のような存在とみなしているのである。売れない小説家は仕事もあまりせずに生活に破綻をきたしながらも、自分の作品の真の価値が認められる日のために原稿用紙を埋める日々を送る。
このように多少自虐的に私自身の立場を表現しているのであるが、実はこの私の気持ちは、先ほど述べた学術論文と著作の対比で言えば、学術論文を書く人の立場をある程度代弁しているのである。つまりすでに述べた博士論文のような、売れなくても学問的な価値を少しでも有するようなものを書いて、あわよくば出版したいという虫のいいことを考えているのである。つまり私のメンタリティは基本的には論文を書くことに向けられているのであり、売れるような本を書くことは、どこか邪道だと思っているところがある。