本を創ることの意味
ここで本を創ること、という表現を時々用いることをお許しいただきたい。私は本を出版することに大きな思い入れがあるが、それはその装丁やデザイン、挿絵や文字の種類なども含めたある種の作品というニュアンスがそこにあるからだ。だから本は書く、というよりは創るものだ、という感覚がある。
まずこのテーマに関して私の素朴な疑問を述べるならば、「人はどうして本をもっと書かないのだろうか?」という事だ。私たちの多くが何らかの形で自己表現をする機会を望んでいる。それは昨今のSNSの繁栄を見ればわかることである。多くの人々が気に入った景色や見栄えのする料理をスマートフォンで写真に収める姿を目にするが、それらをインスタグラムに載せることは多くの人にとって重要な関心事のようだ。
精神分析的な精神療法を実践する私たちも、そこでの経験やそれをもとに作り上げた理論を発表するための幾つもの手段を持っているが、それをある程度まとまった分量で発表する際に、著作という形を選ぶことの利点は多い。本を書くということほど費用もかからず(もちろん執筆料などは発生はしないが)、他人に迷惑をかけることなく(まったく売れない場合には出版社に申し訳ないが)、そしてリスクを伴うことなくできる自己表現は他には見当たらないからだ。私は比較的多くの著作を書いてきたが、自分だけ人より多くそのような機会を得られたことについては一種の後ろめたさがぬぐえない。ただし最近ではインターネットの普及で、ホームページやブロクという自己表現の手段が格段に増えた関係で、この様な後ろめたさは幾分減っては来ているのであるが。
ただしそうは言っても「書くこと」が好きでない人も多いであろう。私たちはみな自己表現の機会を望んでいると述べたが、そのための手段は人によってまったく異なる。それはダンスなどの身体表現であったり、歌唱であったり、器楽演奏であったり、絵画であったりするだろう。あるいは仕事を通して社会に貢献したり、議員として政治活動に携わったり、起業して金銭的な報酬を得たりすることも立派な自己表現と言える。そのように考えると書く事を自己表現の手段として選ぶ人がそれほど多くないとしても、驚くにはあたらないかもしれない。それに書くのが苦手な人にとっては、一冊の本になるような分量を書くという作業は苦行に等しいのかもしれない。そこで私の話は少なくとも書くことの喜びを多少なりとも理解し、そうすることに興味を持ったりする方々に向けられたものであることを最初にお断りしておきたい。その上でいかに「もっと楽しく書けるか」を多少なりともお伝えできれば私としてもうれしい。