2019年8月17日土曜日

揺らぎと死生学 5

さてここからは日本文化の含みについて述べたい。私はこれまで見たフロイトの記述を日本文化という視点から眺めてみたいのである。言うまでもなく両者の関連は明らかである。日本文化においては明白で固定されていて、静的なものに価値を置かないという伝統がある。日本においては、どっちつかずのものに親和性があり、日本において美的なものはいずれも刹那的なものである。そうでないと、私たちは「もののあわれ」を感じないのである。フロイトの「移ろいやすいから美しい」という議論が同僚の詩人には受け入れられなかったとしても、日本人にはおそらくこの理屈に同調する人がそれだけ多いだろう。北山修先生もまさにこの問題について扱っている。彼によれば日本人は自分たちの運命を儚いものに投影する傾向にある(北山, 1998)。それらの儚いものとはホタルや線香花火などである。松木邦裕先生は「不在の在」を論じ、そこにないものが逆説的にその現前性を示すという点について論じている(松木, 2011)。私は最近になり、日本の文化を受け身的で秘密主義的であると表現した。それは隠されたものにより深い意味を付与する。それは谷崎潤一郎(1934)の「陰翳礼讃」により表現された。
ここで私の意見を述べるならば、この心性は日本人にとっての春の風物詩である「花見」に典型的に表されていると考える。毎年春先になると日本列島の各地の桜の木が一斉に花をつける。人々は桜の木の下に繰り出し、談笑し、酒を飲む。そしてもちろん桜の花を愛でる。しかし桜の花の命は短く、せいぜい二週間しか持たない。そしてその淡いピンクの花びらが雨のように散ったり、川面の一面に広がったりする。人々は桜の花の季節があっという間に過ぎ去ってしまうがためにそれを愛でるというところがある気がしてならない。日本人にとっては儚さの価値は時間の中での希少さであるTransience value is scarcity value in timeというフロイトの言葉が身にしみいるであろう。実は驚くべきことに(まあ、文脈からすれば驚くにはあたらないのであろうが)、この「無常について」のエッセイでフロイト自身が花に触れている。「たった一晩だけ咲く花は、それだけで愛でる価値が少ないとは決して言えない」(P359)。私の中のファンタジーでは、フロイトは日本の花見のことを知っていたのである。
私の考えでは、表現しないという事は誘惑的であるという事が重要である。控えめでへつらう態度は実は心理的な作戦でもあるかもしれない。しかしもちろんそれは行き過ぎれば自己破壊的となるのは北山(1998)が警告している通りである。北山は日本人がハッピーエンディングよりは別れのテーマを好むことについて述べ、「この抑うつ傾向は示唆的であるが、病的に自己破壊的で、自分自身も刹那的であると感じさせ易い。(p. 947) と述べる。