2019年6月10日月曜日

書くことと精神分析 推敲1


論文を書くことの精神分析的な考察については、そこに含まれる自己愛的な意味合いも含めてかつて発表したことがあるし、そこで私の主張はすでに述べたと感じている。ただし私たちに与えられたテーマは、「本を書くこと」について論じるということである。そこで臨床について論文にすること、というテーマからは離れ、このテーマについてもっぱら論じたい。
まず私が思うのは、人はどうして本を書かないのだろう、という事だ。これは私が一番わからないことである。本を書くということほどかかる費用も少なく、他人に迷惑をかけることなくできる自己表現はないのだ。別の言い方をすると、みんなが私みたいに本を書きたいと思ったらどうしよう、あるいはどうして私だけこんなに書かせてもらっているのだろう? どうして私にこんなに「いいとこ取り」が許されるのだろう、という事だ。それほどに本を書くことには達成感が伴う、そしてリスクを伴わない格好の自己表現の手段なのだ。(ただし最近ではインターネットの普及で、ホームページやブロクという自己表現の手段が格段に増えた関係で、この「いいとこ取り感」は減っているのであるが。)
私が常に思うのは、人は自己表現を求める存在であるということだ。そしてもちろん表現されたものを他人に評価されたいという願望を持つのも自然なことだ。そして期待した評価が受けられなかった際には大きな傷付きを体験する。健常といわれる私達の精神生活のかなり多くはこの自己表現と他者からの評価をめぐる活動で占められる。私が数多くの理論の中でも自己愛の視点を重んじるのはこのためだ。そして最近これほど多くの人がSNSに夢中になっていることも十分理解可能なのである。何気ない風景を写メで撮って簡単なコメントをつけてアップしたところ、「いいね」が沢付いてきた。それからハマってしまった、というかなり高齢の女性の話を聞いたこともある。しかも匿名でそれを行うことができるので、自分を必要以上にさらすことがないという安心感があるというのだ。
今の例は被写体を切り取るという作業であるが、それ以外にも実はあらゆる事柄が自己表現につながる可能性がある。そして何をその手段に選ぶかについては人により全く違う。たとえば冷蔵庫に残っている消費期限の迫った食材を見ているうちに閃き、「よし、お昼はあれをつくろう!」と思っていそいそとキッチンに立つという人もいるだろう。しかし私にはそのような能力は全くない。食材越しに出来上がった料理を想像する力がないからだ。だからとても興味深いはずの料理の話も、私にとってはあまり意味を持たない。それと同様に論文を書くこと、本を書くことに本質的に向かず、その面白さを想像できない人には、今日の私の話はほとんど意味を持たないであろう。そこでこの問題に多少なりとも興味を持っていたり、書く必要に迫られていたりと言う人を対象にお話しすることにする。そして本を書くことの面白さを売り込むのが私の役割だと考える。しかしそれで皆さんが本を書きだすと、ますます私の本が売れなくなってしまうので、そこは気を付けてお話をしたいと思う。
まず本には二種類あることをお話したい。書き下ろし newly-written book と論文集 anthology である。これらはまったくの別物であることを理解するべきだろう。そして一般人が本を書くという体験に一番近いのが、博士課程に進んだ生徒が博士論文を書くことである。私にとっては博士論文を書くという事が学術書を書き上げるという体験の基本形としてある。逆に言えば博士論文を書き上げるモティベーションと方法論が備わっていない場合には、技術的に著述は難しいという事だ。
ただしもちろんそれには例外がある。著作のある人がすべて博士論文を書くという経験を持っているとはもちろん限らない。あるひとつながりの主張、体験を一気に書き下ろす力を最初から持っている人もいる。だからそのような特殊能力を持つ人のことはここでは扱わないことにする。また博士論文を書くことなく本を書くという技術を身に着けた人の場合には、博士論文を書くという作業に含まれる段階を別の形で踏んだものと考えることが出来る。そこでともかくも本を書くという作業を博士論文(あるいはそれに相当するような質と量の著述)を作成するという問題に置き換えて考えたい。もちろん受理された博士論文がことごとく出版に耐えるレベルを備えるかは別問題であるが、最近では博論が若干の加筆訂正を経て著作として刊行される例も少なからずみられるという現実をそのように考える一つの根拠として挙げておきたい。

博論を書くという事

それまでまとまった文章を書いた経験のない人が、それでも博士課程に運良く受け入れられて博士論文を書くという意気込みを持つことは悪いことではない。でもそれは登山経験のない人がいきなり高い山の頂上に立ちたい、と望むようなものだ。まずは経験者と一緒に、あるいはそのアドバイスなどを参考にして標高の低い山を攻略して体力と自信をつける必要があるだろう。そしてその標高の低い山、とはいわゆる原著論文や研究論文、ないしは査読ありの研究論文を書くことである。そしてその低い山に登れる体力と経験すらもない場合には、まずはトレーニングとして査読なし論文や症例報告などにチャレンジしてみることが勧められる。
そこで結局は単著の論文を書くというところから話を始めなくてはならないが、それがやがて博論や著作に繋がっていくような単著論文である必要がある。そして博論につながる論文は書いていくうちに自然と関係するテーマを生み出すような論文である必要がある。ある というテーマについて論じているうちに、関連する というテーマが浮かび上がり、今度はそれについているうちに や というテーマが浮かび上がるような論文。そしてその全体が という大きなテーマに収斂しそうな気配があれば、しめたものである。あなたが「そうか、このbという論文は、という博論の一つの章になるのだ」という感覚をつかむことが出来たら、幻の博士論文 の準備は着々と整っていることになるだろう。ただしもちろん単発の論文を書き始める時にはそんなことを考える余裕はないかもしれない。そしてすべての単著論文をそれぞれ著作に持っていくことは出来ないし、その必要もないかもしれない。しかしたまたまある単著論文を書いていて、ひとつの鉱脈に出会ったと感じることが出来たら、それは博士論文に化ける可能性がある。逆にもしその鉱脈に出会わなければその論文は単著のままで終わるであろう。
鉱脈に触れた論文の場合、そこに触れたいけれど触れられなかったというテーマがそこここにあるはずだ。この論文はここを掘ったが、あそこの尾根までつながっているかもしれない、とかここまで掘り進んで体力が尽きたけれど、次回はその先まで掘り進んでみようという事になる。つまり続編を書きたくなる、あるいはその論文で続編を予告するという事になるだろう。おそらくそのような体験があり、初めて人は博士論文を書け、そして著書を書くようになるのだと思う。