2019年5月2日木曜日

ベンジャミンと女性論 ①


●ベンジャミンと女性論

まずフロイトが女性論の発展に結果として貢献したことは事実であろう。しかし彼の考えはとてもひどかった。フロイトは天才的な発想を持っていたにもかかわらずきわめて俗物的な考えを有してもおり、突っ込みどころが満載だったところがいいのだ。女性イコール受動性、男性イコール能動性、という分け方をし、もともと人間は両性具有的だといいながらも、女性を小さな男性と認識するとも言った。そしてペニスの欠如の体験がいわば女性にとっての原体験であると考えた。そしてペニス羨望を持ち、愛する対象を母親から父親に移し、性的刺激を受ける源をクリトリスから膣に移行させると考えた。膣イコール男性を受け入れる受動的な器官、という理解だ。ここらへんがベンジャミンを苛立たせた可能性があるだろう。ただし日本人の目から見たら、受動性=劣ったものという固定観念がそこにあるような気がするが・・・・。
さてフロイトの理論は色々反対意見を浴びることになるが、カレン・ホーナイやアーネスト・ジョーンズのような異議申し立てとはと違い、メラニー・クラインはその点は従順だった。つまりフロイト理論にあまりあからさまには反対しなかったが、最後には母親への能力への羨望、という議論に持っていった。
さてその後に、1960年代からフェミニズム運動が起きる。その中で卓抜した力を発揮したのが、ナンシー・チョドロウとジュリエット・ミッチェルである。二人は女性論を展開した後に、分析家になっていった。これが面白いところだろう。彼女たちは分析理論を用いつつ、女性論との融合を試みたところがある。
さてジェシカ・ベンジャミン。彼女はこの種の争いそのものを脱構築したいと考えた。彼女の趣旨は、お互いに相手を主体としての他者として認め合う関係が重要であると考えた。彼女の主張は、フェミニストが二元論を批判することで、かえってその二元論を強化しているのではないか,というのだ。女性を持ち上げることは、二元論を反転しただけになる。
ここであるよくある夫婦喧嘩を思い出す。夫が妻に「お互いに仲良くやれるようになるために、君には~して欲しい」という。(~の中には適当なものが代入可能だ。)しばらく黙って聞いていた妻はついに言う。「だったらみんな私が悪いって言うの!」するとそれまで穏やかに話していた夫は目の色を変える。「せっかく穏やかに話そうとしていたのに。やっぱり君はみんな僕が悪い、と思っているんだな。」
二人が平等に、対等になるために、相手に要望をし、考え直してもらうという試みは、あっという間にこの種の批判の応酬になってしまう。彼女の相互承認とは、この種の争いを続けないために考え出されたものといえる。
そこで北村婦美先生に従った、彼女の訳したベンジャミンの「他者の影」の要約である。
第1章 身体から発話へ、精神分析の最初の跳躍
ここでは最初は受身性の立場に会った患者が主体的な形を行う能動的なあり方を示すようになったという話。
第2章 内容の不確かな構築物 (曖昧な構成概念だ、と言うこと)ベンジャミンは、フロイトが結局男性と女性を規定できなかったことの中に、それをしようとすることで二項対立を招いているということを示す。(しかし二項を対立的に措定することなしには、心の弁証法は回らないではないだろうか?) ベンジャミンはポスト・エディプス期について語る。おそらくそこにある本質は、男性は男性としての自覚を持ちながら女性に同一化できるということ。女性も同様のことをしている。ここで cross-identification 交差同一化という重要な概念が提案される。
第3章 他者と言う主体の影
自分を承認してくれるのは、自分の外側にある主体である。ここにあるのはヘーゲルの「承認のパラドックス」が述べられる。他者を奴隷にすれば、承認してもらえない、というパラドックスだ。
ああ、疲れた。