昨日の同一化のテーマでこんなことを考えた。あなたは一人前の大人であるとしよう。そのあなたがふとした偶然からある未開の村Aを訪れる。そこでは習慣が全く違い、人との接し方もわからず、日常生活の何をとっても戸惑うばかりだ。もちろん言葉などチンプンカンプン。そこであなたが生活をしなくてはならないとする。ところがあなたには救いの神がいる。たまたまAと日本を行き来するMさんがいる。なんと彼はAで生まれ育ち、それから思春期前に日本に渡った、言わばバイカルチュアル、バイリンガルの人だ。彼がちょうど暇なので、あなたにいつも付き添ってくれるという。Mさんはあなたが恐る恐る宿を出て道を歩く間も常にガイドをしてくれる。表情も身振りも日本人とは全く違うA村で話しかけてくる人の通訳をしてくれ、店で見慣れない食べ物の一つ一つを説明し、何が口に合いそうかを判断してくれる。そこで売られていた飲み物を口にすると、実に奇妙でよくわからない味だが、Mさんは「うん、おいしい!」と言い、あなたも「そうか、これはこの文化では美味しんだ」と知り、するとなんとなくおいしいと思える。気が付くとあなたはMさんの後をついていろいろなものを体験し、判断がつかないとMさんの顔色を伺い、少しずつMさんを通してそのAでの体験を広げていくのだ。ところが10日経ったある日・・・・。Mさんが忽然と消えてしまい、あなたはAに一人ぽつんと残される。あなたは自分自身がどこかにいなくなってしまったような体験さえするだろう。どうやって生きていったらいいかさえもわからない。まるで自分の中の大事な部分が突然失われたような孤独感と不安に襲われる。一人前の大人であるはずのあなたがそんな体験をするのだ。でももちろん、あなたが瞬間移動して日本に戻れば、そんな不安は一挙に消失してしまう。Mさんなど全く必要としない一人前の大人に戻るのである。
これは思考実験だから、ちょっと違った状況も考える。Mさんが忽然と消えたのは、A村を初めて訪れてから一年後だとする。あなたはもちろん戸惑う。しかしあなたはずいぶんAでの生活に慣れてきた。Mさんがいないことを知って不安に感じながらもあなたはAでの生活を続けていくだろう。あなたはある程度はあなたで居られるのだ。
このような状況を想像した場合、最初の頃あなたはMさんに相当同一化していたといえないだろうか? あなたはAでの習慣を何も知らず、Mさんの顔色を見て判断し、多くを学んでいく。最初はMさんの感じ方や判断は、あなた自身の判断であるはずだ。なぜならあなた自身の感じ方や判断は、まだ存在しないからだ。そしてMさんがいなくなると自分がいなくなったと感じる。Aで生きていけないのではないかとさえ思い、不安になるのだ。
ところが一年後にMさんが去った場合は、あなたは自分自身をある程度持っていることになる。そこでの体験はこんな感じだろうか? 「この不思議な飲み物Zは、Mさんが最初に『美味しい』と言ったAのお茶だったな。自分は特に美味しいという感じではないけれど、悪くはないと思っている。それよりも自分にはAのあのジュースが好きだな。」ここで起きていることは、Mさんに入り込んで一瞬それを体験した後、自分の体験に戻るという事だろう。
この例を乳幼児の体験としてみた場合にもかなり似たことが言えるだろう。(Mさんとは、mother のつもりであった)。しかしここで面白いのは、私たちが何か新しいことを学ぶ際には同じように繰り返されることでもあるという事だ。ここで同一化の対象がいなくなるとメランコリーになるかどうか(フロイトの考えはそこに由来していた)どうかという事はさほど重要ではない。