2019年4月2日火曜日

複雑系 19



もう一つはこの問題とフロイトや北山先生の論じた transiency 無常ということとの関連である。Transiency とは日本語で言う儚(はかな)さのことでもある。いい加減さと儚さは実は深く関連している。儚さは、「ある」と「ない」という両極の間にあって揺れているからだ。北山先生の中でも結びついていると思う。このことの例に桜を取り上げよう。儚さを論じるのに、桜をおいてほかはないだろう。
突然だが、思えば桜もいい加減な花だ。その年によって咲く時期がいい加減だし、あと数日持つかと思っていたら、急に風が吹いたり雨が降ったりすると散ってしまうし、花見の計画がおじゃんになる。それにそもそも見頃が短い。ちゃんと咲いて愛(め)でてもらうという意思があるのか、と言いたい。色も赤でもなく白でもない、中途半端だ。でもそこが日本人にはグッとくるのだろう。サクラは儚さ、無常の典型である。そして人間の命、存在もそうである。思えば私たちはどうして生まれてきて、何を目的に生きているのか、誰も知らない。いつ死ぬのかも知らされず、結構突然、たとえば大動脈に裂け目が一気に走って、あっと言う間にあの世に絶命してしまう場合もある(解離性動脈瘤)。その意味では先のことは何もはっきりしていないのだ。それをそれとして受け止め、「ああ、だから味がある」「これがワビサビだ」などというのが日本人なのだ。アメリカ人の感覚なら、「だから造花でいいじゃないか。手っ取り早いし。」となるかもしれない。でもそれは生花と造花の区別がつかない程度の感覚だから言えることなのだ(ひどく差別的なことを言っている)。
さて桜の花。日本人は関東なら3月の下旬あたりからソワソワしてくる。桜の枝をジロジロ見て、どのくらい蕾が膨らんだ、などと全国ネットのニュースで流すのだ。「靖国神社の目印となる桜の木の蕾がまだ三つしか開花していません。惜しい!」などと言っている。ジロジロ見られる桜の蕾の身もなって欲しい。この咲いていない、咲いた、の中間が一番人々の心をつかむのだ。しかもたとえば七分咲きならそのままでいてくれればいいのに、どんどん進む。桜の命は無情にも「無常」なのだ。
フロイトは「無常について」(1916)で、美はやがて失われるのなら意味がない、という詩人の友人に対して、「何を言っているか。花はやがて散るからといって、だから美しさが損なわれることはないのだよ。」と言う。むしろ「だからこそ」美しいというのだ。見納めと思うから美しい。やがてなくなるという感覚が私たちの美的感覚を研ぎ澄ます。英語のこんな表現を思い出す。Smoke em if you got em最後の一服をせいぜい楽しむんだな。難事の前の一瞬の安らぎ。これが最後の一服と思う時の味わい深さ、みたいなことを言っているのだろう。そしてこれはちょうど人生にも言える。今日が人生の最後のひと思い、生きよ。世界が変わって見えるだろう。儚さはそのまま生き方の哲学をも含んだ深い議論だ。
 ちなみにフロイトのこの言葉にはちょっと問題があると私は見る。彼はいわば「桜が散るという十分な覚悟が出来ているならば、本当に味わえるのだよ」と言っているのだ。その心は「人は諦めが肝心、それが出来ないから苦労するんだよ。」でもフロイトは別のところでは「人はあきらめることが出来たら苦労しない」などともザロメに対する書簡の中で言っている(たしか)。それに「無常について」ではこんなことも言っている。「花はどうせまた来年になれば咲くのだから、何をクヨクヨするのだ。」だから本当はフロイトはこの儚さは、美しさと寂しさの混淆であることを否認しているところがある。というよりは美しさは失う悲しさの予期により成立する、と言うことを明言、ないしは自覚してはいなかったというわけだ。フロイトはおそらくこのエッセイをサラッと書いたために、(書きっぱなし、という感じ。これも儚さというテーマのためだろうか。)いろいろ本音とかつじつまの合わないことが露呈しているのではないか。しかし心はゆらぎの中に常に健康さがある、という意味ではこれはゆらぎの議論なのだ!というのが私の結論である。さてこのゆらぎのある心とは常に分からなさを包含していると言っていい。一瞬先に何があるかわからない。だから予想外のことが起きることを期待する。揺らぎとはそういうことで、それは「あれかこれか」でも「あれもこれも」ではない状態なのである。桜は蕾でもなく、散ってもいず、今日どうなっていくかわからない、そして私の人生も今日何が起きるかわからない(でもそれをおそらく楽しめる)から面白いのである。でもそれは純粋な楽しさではなく、どこかに寂しさや悲しさを含む。明日が分からないのは、今日まであったものが失われてしまう可能性を含んでいるからなのだ。