2019年3月14日木曜日

解離の心理療法 推敲 33、複雑系 11


◆第6章 自傷行為と解離

1 「先生、私の左足を切断してください!」

この章では、解離性障害の際に頻繁に出会うリストカット、アームカットなどの自傷行為について解説します。
最初に読者の皆さんにこんな質問をしてみましょう。私たちの多くは自分の体を意図的に傷つけることなどありえない、と思うのではないでしょうか?自ら痛い思いをして自分の大事な体に傷をつけることなど、常識では考えられないと思うのが普通ではないでしょうか? でも人間の心は体と連結していることを忘れてはなりません。私たちの心はふつう身代を保護し、守ろうとします。しかし様々な理由から両者の関係が崩れると、自分の身体を傷つけたいという願望が生じるのです。
「身体完全同一性障害 Body Integrity Identity Disorder」と呼ばれる病気があるのをご存知でしょうか?この病気は、自らの体の一部に幼少期から違和感を抱き、その部分を切断したいという願望に強迫的に支配される病気です。外から見るとなんの問題もない身体に対し、彼らは、“あるべきではない部位が備わっている”という違和感を長年に渡り抱き続けています。しかし、「先生、私の左足を切断してください!」と医療機関で訴えたとしても、健康な足を切断しようとする医師はいません。そのため、自分で足をドライアイスに長時間浸し、壊死を引き起こして切断するという危険な行為におよぶことになります。身体完全同一性障害の多くは四肢の切断願望を持つとされますが、中には、視力を失うことを幼い頃から希求し、排水管クリーナーを自らの目に流し込むことによってその願望を達成する人もいます1)。この病気の原因は、右頭頂葉の機能不全による神経疾患として説明する研究もあれば2)、より心理学的な面に原因を置く研究もあり3)、今でもはっきりとわかってはいません。「他人の手症候群 alien-hand syndrome」などと同様、実際の身体部位と脳内の身体地図(ボディ・マップ)との齟齬、マップ内の接続欠陥などに起因するという考えもあります。しかしそこで起きている中隔的な出来事は、自分を傷つけることがある種の快感を生むために、その衝動を止められないという事実なのです。
身体完全同一性障害の報告はそれほど多いものではなく、またこの病気に伴う症状は狭義には自傷行為と言えません。しかし、人は痛みや不快を回避するものと一般に考えられる中、自ら身体を傷つけたいと願い、実際に傷つける人々が存在するという点、周囲を混乱させ、本人でさえも、その行動の意味を明確に説明できない点などは自傷とも共通します。つまり理由は分からないまでも、そうすることが快感になってしまっているのです。自らの体を傷つけるという行為は、現在の精神医学にとって、いまだ多くの謎であると言えるでしょう。
解離性障害においても自傷行為は頻繁に認められます。そこで本章では、まず、自傷行為に関する理解を深め、解離に特徴的な自傷行為について考察していきたいと思います。

2 自傷をどう見立てるか 
以前は自傷を境界性パーソナリティ障害(BPD)の一症状として、そして、どちらかというと対人操作性の高い(自分にとって利する方向に他者を動かそうとする)行為として理解することが一般的でした。つまり自分を傷つけることそのものよりは、その結果として周囲を巻き込むことが目的となっているという理解でした。この考え方によれば、自傷それ自体は苦痛を及ぼすものの、それを超える喜びないしは不安の軽減をを、他人を動かすことにより味わう、という理解が前提だったわけです。
しかし、1994年に出版されたアメリカ精神医学会の診断マニュアル4)では、BPDの診断基準に、「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状」という一文が加わることになり、それ以降、BPDにおける自傷は必ずしも操作的な行動化だけではないということが、共通の認識となりました。自傷の数多い事例経験を持つレベンクロンは、自傷のありようから、「非解離性自傷症」と「解離性自傷」という、ひとつの見方を提示しています6)(表1)。この「非解離性」とされる自傷が、従来のBPDで言われていた「行動化としての自傷」に近い概念にあたります。レベンクロンで示された二つのタイプの自傷が、どのように異なるのか、次に見ていきたいと思います。

2-1 非解離性の自傷
まず、短い症例を提示しましょう。

マナさん(10代後半、女性)

(略)



複雑系 11

私たちの感覚器が持つフラクタル性

いきなり変な話になってきている感じですが、まあこのままのペースで行きます。どうせ思考実験をしているだけですから。私たちの感覚器がそもそもフラクタル性を持っているのです。たとえば私たちの感覚はおそらくかなり鋭敏に出来ているでしょう。でもその鋭敏さは、どのような感覚入力を体験するかにより、その時々で変化しています。たとえば二つの重りを持ち上げて、どちらが重いかを判断しようとします。あいにく「重さ何グラムの分銅」、などとは書いていないので、持ち上げた感じで判断します。5グラムの分銅と10グラムの分銅をブラインドで比べてみます。見たところ分からないようにうまくカバーされている分銅ですが、おそらくきっとわかるでしょう。皆さんはこの5グラムの差が分かったことになります。さて50グラムと55グラムの重さを比べたらどうでしょう。同じように作られていて、見たところ分かりません。おそらく5グラムと10グラムを感じ分けることが出来る人でも、50グラムと55グラムを感じ分けることは難しいはずです。つまり先ほどは感じ分けられていた5グラムの差はもう感じることが出来ません。でも50グラムと100グラムの分銅なら、おそらく違いは分かるはずです。今度は違いが判るのは50グラムの差という事になります。ではさらに1キロ(1000グラム)の重りと1050グラムの重りを比べてどちらが重いかを言えるでしょうか? このくらいの重さになると、50グラムの差は意味を持たなくなるでしょう。つまり感覚の鋭敏さはその入力の大きさによりいくらでも違ってきます。つまりフラクタル的なのです。軽いものなら5グラムの識別脳、重くなるにつれて50グラム、500グラム、という風に。
人間の感覚とはこのようなものです。明るさ、味覚、触覚のあらゆることに働くのは絶対量の差よりは相対量です。殆んど真っ暗なところでは、ほんの少し明るいものでもすぐにわかるのに、明るいところではその差はほとんど区別がつかないのです。人間を含めた動物の感覚は、ある種の変化に鋭敏なようにできています。そこでの決め手は絶対量よりは相対量の変化です。明るさならどの程度相対的な明るさが増したかが重要です。というのも生命体は環境の変化から自分にとっての危険を察知する必要があるからで、感覚器はそのために入力の量を自動的に調節します。丁度私たちが現在用いているカメラの露出やマイクロフォンの感度が自動的に調節されるように、感覚器も、たとえば暗いところでは虹彩が広がって光をよりたくさん取り込み、明るいところでは逆にその量を調節することで、現在からどのくらいの割合の変化が生じたかを敏感に察知するように出来上がっています。それと同時に、変化のないものは感覚にすら上ってこないようにできています。
心理を勉強した人間なら、ウェーバー・フェヒナーの法則というのをご存知でしょう。
ウィキ様を参照してみましょう。

「エルンスト・ヴェーバーは、刺激の弁別閾は、基準となる基礎刺激の強度に比例することを見いだした。はじめに加えられる基礎刺激量の強度をとし、これに対応する識別閾値ΔR とすると、の値にかかわらずΔR /R=一定量が成り立つ。この一定の値をヴェーバー比という。たとえば、100の刺激が110になったときはじめて「増加した」と気付くならば、200の刺激が210に増加しても気付かず、気付かせるためには220にする必要がある」。お弟子さんのフェヒナー先生も似たようなことを言いました。
「ヴェーバーの弟子であるグスタフ・フェヒナーは、ヴェーバーの法則の式を積分することにより以下の対数法則を導き出した。刺激量の強度が変化する時、これに対応する感覚量EC log R の関係となる。ここでは定数である。つまり心理的な感覚量は、刺激の強度ではなく、その対数に比例して知覚される。」
ではどうして私たちの感覚がそのようなフラクタル性を持っているかというと、私たちに間断なく刺激を送ってきている自然界が、そのようなフラクタル性を持っているから、としか考えられません。そのために揺らぎ、という考え方をここで導入します。私たちが体験しているさまざまなものは一定の揺らぎを持っています。そしてそのゆらぎの大きさがフラクタル性を含みこんでいることになります。たとえば昨日の例で言えば、テニスのサーブが調子いいか悪いか、というのはほっておいても揺らぐものです。そして大抵は、昨日は67割くらいうまく行ったけれど、今日は34割くらい、という程度に動いているでしょう。昨日のサーブが三回に二回はいるか、一回か、という感じです。私たちが聞いている音にしても、大体同じくらいの音量を出しているものはその時々で揺らぎます。皆さんもテレビを見ていて、番組ごとにボリュームを調節したりはあまりしないでしょう。パートナーの話し声の大きさも大体そんなレベルで推移しています。そして物事がフラクタル的である、という事は、どのようなレベルに落ちても(上がっても)、ゆらぎの程度はあまり変わらないという事です。これは同じような波形をしている、と言い直してもいいでしょう。よく例に上がる株価の値などはその典型です。年単位で見ても、月単位でも、日単位でも、それこそ秒単位でも同じような動きをしています。つまりグラフの上下から、それが月単位の動きなのか、秒単位かを区別がつきにくいということです。そしてそれは突き詰めて言えば、スケールを変えても、そこには自然や人間の営みが影響しているという事です。
ちょっと極端な例です。たとえばある島を取り上げます。屋久島にしましょう。屋久島は周囲何キロでしょう? 複雑系の世界を知った私たちは、こんな素朴な疑問を呈することが出来なくなりました。これはフラクタル的には無限になってしまいます。つまりどんなに拡大しても同じように入り組んだ海岸線が存在するからです。でもちょっとホラーな想像ですが、屋久島に調査をしに行ったら、岸に近づくにつれて途方もない直線が見えてきて、よく見たら長さ一キロ四方のピクセルで形成されていた、となったらどうでしょう? ちょうどコンピューターの画面を拡大していくとでてくるようなピクセルが島の実態だった!? こうなるとそのレベルに下りるとフラクタル性は失われてしまい、島の周囲は確定することになります。(もちろんピクセルの表面はざらざらしていてはいけません!)
実は同じことはあるわけで、たとえば株価にしても、それこそ一秒間に1000回という頻度で売買が行われていると言いますが、一万分の一秒をひと目盛にしたグラフを書けば、いくらなんでも「ピクセル化」してしまいます。