2019年2月23日土曜日

心因論 推敲 2

1.に関しては、神経症は軽傷でどちらかと言えば一過性の、いわゆる「ノイローゼ」と呼ばれる状態として、広義の「精神病」と呼ばれる統合失調症や躁うつ病とは区別されてきたという歴史がある。そして後者はより深刻な脳の障害、あるいは内因性の障害と呼ばれるのに比べ、神経症は明確な脳の障害を伴わない、軽症の、反応性のものという扱いを受けてきた。この状態は果たして先に述べた「心因」にどの程度合致するだろうか?
この点を考える上で私たちが考え入れなくてはならないのが、精神分析的な理解の歴史である。フロイトは従来のヒステリーの概念をまとめる上で、そこに強迫神経症や不安神経症など、現在私たちが神経症としてカテゴライズするような病態を網羅した。かれは現実神経症として現実の性生活に障害があるもので、性衝動の過度や過度の消粍に基づく神経衰弱と、性衝動の過度の蓄積による不安神経症に分けた。また精神神経症としてはヒステリー、強迫神経症、恐怖症と自己愛神経症を列挙した。 それまでここまで神経症についての網羅的な理論を打ち立てた人はなかったため、これらがその後しばらく神経症の理解の基礎となったわけだが、それはこれらの神経症を心因に基づくものと考えていいのであろうか。実はこれはビミョーな問題であることがわかる。なぜならフロイトは無意識をその理論に持ち込んでいるのだ。それを「了解可能」とすることが出来るのだろうか? たとえばある少年が馬に対する恐怖症となる。馬に追いかけられて恐ろしい思いをしたから馬恐怖が生じた、というのは誰にもわかる理屈だろう。だから「了解可能」な心因反応と言える。ところが父親に対する恐怖が抑圧されて、たまたま馬に投影されたと言う理屈はどうだろう?そう、無意識的なプロセスは、その当人ですら追えないのであるから(もし終えたら、それは「意識的」ということになり、矛盾する)それを心因反応とするのは理屈から言えば難しい。だからこの「1.神経症」は実は心因性と呼ぶには問題があるのだが、おそらくそこについて真剣に問うことなく、これも心因性の疾患のひとつとして考える人が多いだろう。
さて2.適応障害である。私の考えでは、これがおそらく心因性の障害の概念に最もぴったり来るのだ。その目でDSM-5の適応障害の基準を見直した場合、ヤスパースの体験反応にあった定義に、「ただしその反応のレベル自体は度を越している」ということを付加することで、体験反応の持つ矛盾を自ら含みこんだ、その意味では居心地の悪い診断となっている。それは以下の通りとなる。
A.はつきりと確認できるストレス因に反応して,そのストレス因の始まりから3カ月以内に情動面または行動面の症状が出現
B.これらの症状や行動は臨床的に意味のあるもので,それは以下のうち1つまたは両方の証拠がある。
(1)症状の重症度や表現型に影響を与えうる外的文脈や文化的要因を考慮に入れても,そのストレス因に不釣り合いな程度や強度をもつ著しい苦痛。
(2)社会的,職業的,または他の重要な領域における機能の重大な障害
C.そのストレス関連障害は他の精神疾患の基準を満たしていないし,すでに存在している精神疾患の単なる悪化ではない。
D.その症状は正常の死別反応を示すものではない
E そのストレス因,またはその結果がひとたび終結すると,症状がその後さらに6カ月以上持続することはない。
この言わば直系の心因反応とも言うべき適応障害の概念が有する「内因性」ということが重要である。適応障害は心因反応プラスαなのであるが、そのαの由来はどこにも記載されていないし、それはいわば原因不明のファクターによるもの、すなわち内因ということになるのである。