2018年12月5日水曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ③


自己愛の理論のこれからの方向性


自己愛の理論の発展と並行して、現代の精神分析での一つのテーマとなっているのが恥の問題である。これまで私が論じてきたとおり、恥の問題はフロイト自身の著作も含めてそれ以来の長い沈黙を経て、197080年代より米国の精神分析で盛んに論じられるようになった。しかし恥は、コフート理論との融合の試み(Morrison)は見られたものの、特に自己愛との関連性が積極的に議論されているわけではない。特にタイプ1の自己愛の場合には、誇大的な自己イメージや周囲からの注目を求める強い志向性が特徴づけられる点で、自らを弱く劣った存在とみなすといった恥の文脈とは正反対の性格傾向とみなすことができる。しかしこの種の自己愛傾向の防衛的な側面について考えた場合には、それと恥との関連は明瞭に見て取れる。タイプ1の自己愛を特徴とする人が何よりも恐れ、死に物狂いで回避するのは、恥をかかされプライドを傷つけられることである。その意味で自己愛の追求と恥の回避は表裏一体の関係にある。
 ただしタイプ1の自己愛者がプライドを傷つけられた時の典型的な反応は怒りであり、コフートのいう自己愛憤怒なのである。彼らの恥の体験はほんの一瞬、あるいは無意識レベルで体験されるや否や、自分に恥をかかせた相手への激しい攻撃という形で表される。それはタイプ2の自己愛と対象的である。タイプ2の場合は、恥はむしろ定常的に体験されているのであり、それに甘んじ、恥じ入ることはあっても、それを怒りとともにはねのけるだけのエネルギーを彼らは持っていない。
 このように恥をどのように防衛するかという点に関して、タイプ1と2の自己愛者は相反的な反応を示すという関係性を持つことになる。いわば恥の概念が両者にとっての蝶番という意味があるのだ。
最近の精神分析において恥を積極的に論じるというこの傾向は、現代の精神分析の一つの特徴ということができる。恥のテーマはフロイトを含めて精神分析においてふたをされてきたのであり、特に治療者の体験する恥を論じることは一種のタブーであったのだ。そしてそれを論じるということを通して、臨床家はより等身大になり、患者の地平に降りてきたということができるであろう。
精神分析で恥の問題が最近語られるもう一つの根拠は、精神分析プロセスや、精神分析候補生の育成のプロセスがある種の権力の構造を背景にしているからであろう。精神分析の世界は候補生としてトレーニングに参加し、スーパービジョンや教育分析を受けてトレーニングの課程を修了し、さらに訓練分析家となるという一種の権力のピラミッド構造を有する。分析家は自らが訓練分析を受けることで自らの無意識を知る域に達し、それを認定された存在というニュアンスを持つ。その意味で分析家は権威であり、その分析家の施す解釈はある種の権威の衣をまとっている。その分析家が自らも患者と同じ人間であり、同じような過ちを犯す存在であることを明らかにすることには、それが治療的な意味をどのように持つかという問題とは別の、いわば分析家の自己愛の問題を巻き込み、それをさらすことをもいとわないという姿勢の表れともいえるだろう。