2018年12月10日月曜日

解離の本 50


ここで少し脳科学的な話になりますが、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しています。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば」「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。
もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、まねをしている、というレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、というのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません(注釈)。そしてそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
すると不思議なことがおきます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図に示したように、攻撃者の方は IWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージは IWA2 として入り込みます。


(注釈)私が言うこの同一化は、乳幼児が母国語を自然と身に着ける際に生じるプロセスときわめて類似したものと考えることが出来ます。第二外国語を学んだ人ならだれでも体験するはずですが、意図的に、学習として、語学として学んだ外国語は決して本当の意味で見にはつきません。いつまでも真似をしている、その言葉を話せるふりをしている、という一種の作為の感覚が付きまといます。ところが意識的な学習のプロセスを経ずに身につく母国語(あるいはきわめて幼少時に習得する外国語)は、それを母語区語として話す人との同一化というプロセスなしには考えられないことです。なぜならそこにはその言葉のアクセントが「完全に」習得されるからです。それは周囲の人が話す母語の模写ではなく、再びコンピューターの比喩を再び用いるならば、ソフトの取り込みのレベルです。そしておそらくここには最近きわめて論じられることの多いミラーニューロンが介在していると考えられます。