2018年11月5日月曜日

不可知性について 3

昨日の続き。日本の文化はそれに対する諦念から始まっているところがある。人間の若さはあっという間に失われる。力のあるものは必ず滅ぼされる。諸行無常というわけだ。先ほど両眼視といったが、片方が同定されるもの、もう片方は必ず変化する運命にあるもの、と言い換えた方が少しわかりやすいかもしれない。サクラの花を見ると、片方の目では今の美しさを味わっているが、もう片方では今にも散りゆく姿を見ている。だから美しいという説もある。この問題はフロイトが「無常ということ on Transience(1916)で扱っている。サクラは散りゆくから美しいのか。難しい問題だが、両眼視ということを考えるとかなり違った答えが返ってくる。モナリザの絵はほっておくと必ず風化していく。すると美術品収集家は「修復」するのだ。「ああ、モナリザよ、キミは少しずつ虫が食って絵の具が剥げていくんだねえ。いやー、諸行無常だね。そこがまたいいね」とは絶対にならないのだ。だから修復という手段に訴える。ところがサクラは一年中咲いていると、おそらくあっという間に目が慣れてしまい、「ああ綺麗だ」とはならない。こんなことを考えながらネットを検索していくうちに、論文に出会った。
無常観の東西比較(The Notion of Impermanence in East and West) Maja Milcinski (マヤ・ミルシンスキー スロベニア・リュブリアナ大学助教授
後で読んでみよう。
 脱線したので分析の話に戻る。フロイトの無意識は、「見えないもの」に対してあまり畏敬の面を持っていないとは言えないだろうか? 彼なら「無意識にとどまっているからこそ力を発揮する」と思ったに違いない。何しろ症状や言い間違えや夢の形で自己主張するからだ。しかしそれはいずれは意識化され、見えることによってある種の解決を見ると彼は考えた。しかしすでにウィニコットは「真の自己には到達できない」という類のことを言っている。ビオンは「O」の概念で晩年はそれを追い続けた。分析家の関心はいやおうなく「見えないもの」そのものを扱うようになってきている。
トラウマ理論。トラウマ記憶が新たな「見えないもの」のテーマを持ち込んだ。そこには身体を含む「見えないもの」という課題が提示されたようだ。身体は症状として表れてはいても、それが心のコントロールを離れてふるまうという意味では不可知である。トラウマが生じるとある体験が心のレベルでは把握できない形で身体に「刻印」(van der Kolk) されていく。それを言葉にすることはそれを扱うことであり、それが精神にとってどのような影響を与えるかわからない。それはそのままにしておくことで心がそれ以上蝕まれずに済む場合もあれば、扱うべきものが放置され、ネグレクトされてしまうという場合もある。結局ここでも両眼視ということが必要なのだろう。トラウマについてもそれを表に出ている記憶や症状と共に、不可知なものとして扱うという視点である。
さて「不可知なもの unknowable」はビオンが常に考えていたものだが、そこには一つの重要な認識がいるようだ。それは人が意味を求めるという宿命である。
解離の問題。分析家は別人格をナラティブに組み込もうとして、理解を誤る。