2018年11月4日日曜日

不可知性について 2

再び生育過程を考える。子供は最初は母親をいつも同じだと思うだろう。しかしそれは大雑把にしか見ていないからであり、母親は毎日少しだけ違う声を出し、髪型も少しだけ変わっているだろう。あるいは毎日皺が少しずつ増えていく事は確実だ。その意味では厳密に同じものなどこの世界にはない。ただし抽象的な世界では違うだろう。例えば「1」は「1」のままであり続ける。でも抽象概念を持つ前には現実の他者との間でそれを体験する必要がある。おっと脱線している。
その意味で昨日の冒頭の聖書の言葉は少し謎めいている。ある同定が行われるためには、一つの変わらないものを体験できるためには、何かを見て感じ取らなくてはならないからだ。しかし聖書には(といっても私は全くの門外漢だが)見ることによる罪、弊害といったことが書かれている。見ることは、同定することは、囚われることであり、本当の対象像を見えなくしてしまう、ということなのだろう。私たちは見えるものは実は常に変わらないものと思ってしまう。ところが実際にはそれらは確実に変わってしまう。見えるものはかりそめの姿でしかないことを忘れてしまうのである。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」という聖書の言葉はそう理解すればある程度は納得できる。でもそれだけだろうか。はたして人は「見えないもの」を心にとめておくことで満足できるのだろうか? これが最大の問題であり、おそらく後期ビオンのテーマでもあるのだろう。
対象を両眼視するということでホフマンに出てくるテーマがある。それは対象をある種の枠組みを持った「~であるべきもの」と「予想不可能なもの」の二つの側面を持ったものという弁証法的な捉え方をするという考えである。すなわち対象とは同定することが出来て、同時にそれを外れていくものである。母親を「あの母親」として、つまり「瞼の母」として同定していたはずなのに、私たちはある段階で全く別の、得体のしれない側面を持った存在として感じ始める(ことが多い。そこまでじゃないお母さんもいるけれどね)。その多くは「母親にはこんな知られざる側面があった」というような見方をするはずだ。つまり陰の部分、裏の部分、ネガの部分を見るというとらえ方である。しかし実は母親として同定していた対象は、とらえどころのない、不定型な存在であるということを、私たちはどこかで感じ取っているのである。片方の目で「あの(優しい)母親」を見ていたとしたら、もう一つの目で見ているのは、定義しようのない、決して知ることのない存在、不可知の存在なのである。実はこの世に存在しているものとは悉くそういうものなのである。片目でとりあえず基本的には変わらない内的対象像を確保しておいて、もう片方の目で不可知的な存在であることを認識する。対象と関係を持つ、とはそのようなものである。
精神分析でも「見えないもの」「言葉に表されないもの」について考える機会が非常に多いが、以上の点は基本的な事項としておさえておくべきであろう。なぜなら実は「言葉に表されないものを言葉にすること」は、伝統的な精神分析においては基本命題になっているからである。ところが言葉にすることは、それまで変化していなかったものをたちまち変化させてしまうことにもなりかねないのだ。