パーソナリティ障害についての依頼論文の準備がかなりグダグダになっている。ケビンダットン氏の本を読みこなすのに時間がかかっているからだ。でも締め切りの日は近づいている。また下書きを終えてもいないのに、推敲を始めなくてはならない。
パーソナリティ障害の概念を問い直す
これまでの私自身の臨床経験から至ったパーソナリティ障害(以下PD)についての理解は、それ自身を否定するつもりはないものの、それは常に問い直されるべきものであるということだ。なぜならそれは私たちが抱く傾向になる、ある種の錯覚に基づいたものだからだ。PDはせいぜい「状態」であり「特性」ではないと考えるべきであるということだ。(「状態不安 state anxiety」 と「特性不安 trait anxiety」との区別を御存知だろうか。状態とはその状況や文脈により変わるものであり、特性とはその人が性質として安定した形で持っているものである。)すなわちパーソナリティおよびその病的な表現であるPDはその人が常に安定した形で持っているのではなくその時々で現れるものという考え方である。(この考え方は、私の「ボーダーライン反応」の概念にも関係する。)
一般の方も臨床家も、人の性格にはいくつかの特徴があり、それにしたがって分類できると漠然と考える。こんな感じだろう。「性格はかなり固定されたものであり、時間を通じて、おそらく一生を通じて大きな変化はない。そうである以上、ある遺伝的な素因、あるいは幼少時の成育環境がその重要な決定要因なのであろう。『三つ子の魂百までも』というではないか。」
私たちは生きるうえで、物事に意味づけをし、それにより将来を予測したい。人に対して持つイメージも同様である。(最近ネットの記事でこんなものを見つけた。「台風は日本に恨みでもあるのだろうか?」最近の24号、25号の動きは、まさしく日本列島を狙っているかのような印象を与える。人間の体験はこの種の意味付けにあふれているし、昔は自然現象、疾病などがまさにこのような捉え方をされていた。)
きわめて大雑把なパーソナリティの特徴づけは、「Aさんはいい人だ」「Bさんは悪い奴だ」という一種のラベリングであった。PDの概念の大本は「精神病質」つまり犯罪者性格だったのである。本来は「病的な心を持った」という意味であるはずの“psychopathic”は、今では「サイコパス」(あれ、これってpsychopathic を短く言い換えたはずなのだが…)すなわち冷酷で残虐な人、という最悪な人々を指すことになってしまっているのだ。