2018年9月6日木曜日

マイケル・バリントの衝撃 2


 昨日のがかなり長くなった。

 最初に私のバリント観をお伝えしたいのだが、一番の特徴は、彼が精神分析の世界では厄介者ないしは反逆者であるということだ。それは彼らが精神分析のエスタブリッシュメントたちにとって、その屋台骨を揺るがすようなことをする人だった、という意味である。それらの人は分析の内部からは、反抗的、挑戦的な人と見られる傾向にある。しかしこちら側、つまり精神分析の外側から見たら、ある意味で正統派なのである。精神分析理論として確立されたものに対して、その重要部分を受け入れつつも、一部について異議を申し立てをすることで、それをより良いものにしていこうという姿勢である。それは第一に、それが患者の役に立つことを第一の目標にするからである。私の考えではそのような反逆者たちの筆頭はフェレンチであり、ウィニコットであり、コフートであるが、そのフェレンチの復権の後押しをした功労者という意味で、バリントの名前はまず挙げられなくてはならないだろう。そして私はバリントのような反逆者的な分析家ほど真の臨床家と考えたいのである。つまりこの反逆者、厄介者、あるいは頭の痛い存在、というのはもちろん誉め言葉なのだ。
さて私にとってのバリントについても少し話したいと思う。
 繰り返すが、彼は精神分析のエスタブリッシュメントからは頭の痛い存在、つまり反逆者で、フロイトに真っ向から挑戦しているところがあるのはたしかであろう。たとえば彼は Focal psychotherapy (中井先生訳によれば、「狙いを絞った短期精神療法」)により精神分析をもう少し短期間で終わらせようという試みも更には彼が「new beginning の時は、象徴的な行動、たとえば touching, holding a finger なども辞さないと言ったことなどは非常に評判が悪い。ちなみに指一本を長時間握った患者の例は、「治療論から見た退行」の178ページに出てくるが、これは彼にとって成功例に修められている。にそしてこの評判の悪さはもちろんフェレンチに対する評判の悪さ、やばさとも、近い。またもう一つ決定的なのは、彼がいわゆる欠損モデル、ないしはトラウマモデルの提唱者であったということである。これは欲動論とは真っ向から対立していたわけである。しかし彼は実は本来攻撃的な人ではなく、むしろ枠にとらわれずに書きたいことを書いたということだろう。そしてそのような理論家は、実は多くの同じような理論家と関係が深く、言わば橋渡しをする存在である。そこで彼が橋渡しをしていると私が考える人たちを何人か3人あげたいと思う。
① はもちろんフェレンチ、②はコフート、③は土居健郎そして④はウィニコット、である。
 ① フェレンチに関して。何しろバリントはフェレンチの名誉回復を試みたといえる。「言葉の論文(1933)」がドイツ語のままになっていたのを、1849年に英語に直して発表したのはバリントであった。そして何より、フェレンチが行った壮大な実験を検証し、私たちに臨床的な知恵を授けてくれたのがバリントだ。このことだけでも大変なことである。彼は、退行した患者さんの望みを聞き続けたらどうなるのか、という、ボーダーラインの患者さんを持ったことのなる臨床家なら一度は必ず持つであろう疑問に対する答えを用意してくれる。これはフェレンチの犯した過ちを後のセラピストが犯さないためにとても重要なことだったのだ。これはいうならば治療者がprimary object になり、basic fault をやり直すことができるかということだ。フェレンチはある患者を選び、望みをすべて聞いてみたという。たとえば一日数セッションを持つとか。そして週末も会い、休暇にもついていった。そしてその結果を見ることなく彼はなくなった。その患者は見たところ非常に改善したが、治癒したとは考えられなかったという。そしておそらく失敗したが学んだことも多かったことを認めたという。P157で中井先生は次の様に訳している。
「″大実験″という雰囲気の発達を許した症例で真の治療成功は一例も私はみなかったとだけ述べておきたい。一部の症例の結果は悲惨だった。いちばん良く行ってせいぜいフェレンツィのなしえたことだった。患者は相当改善したが治癒とみるわけにはゆかない程度だった。」
この問題との関係でバリントが行っている考察は意義深い。彼は欲求充足はそれ自体が目的ではないという。それによってcomplex, rigid, and oppressive forms of relationship が変わるのだという。(原著 P134)

② コフートとの関連は、1992年にポール・オーンシュタインという米国のコフート派の分析家が書いている、basic fault の序文からうかがい知ることが出来る。ちなみにバリントは一時シンシナチ大学の客員教授を務めたことがあり、その関係でオーンシュタインと交流があったらしい。彼はコフート派だけあって、米国では60年代の終わりにコフートが精神分析の世界に激震を走らせたという。そしてコフートの人気が浸透するのと歩調を合わせて、アメリカでは英国対象関係論がゆっくりと浸透したが、それはいわばコフート理論への解毒作用antidote を意味していたという。そしてバリント理論とコフート理論は非常に近い関係にあるという。

③  の土居先生については、彼の「治療論から見た退行」に土居先生自身が「前書き」を書いていることで明らかである。彼はその中で、バリントを、自分が一番親近感を持った分析家であり、自分の考えに非常に近いといっている。これはバリントも同じようなことをいっているので、両者の関係は非常に近いということがいえるだろう。彼はたまたまバリントの「最初の愛と精神分析技法 primary love and psychoanalytic technique」 を読んで非常に力強く思い、1962年に米国に二度目の留学をした際に、バリントとの文通を始めた、とある。本文の69ページには実際にバリントが土居先生の1962年の論文を引用し、甘えは「愛されたいと願望すること、あるいはそう期待すること」と言い換え、それが結局はprimary love なのだといっている。

 最後に言いたいのは、結局土居先生自身がかなり分析にとっての反逆者だったということである。ただしもちろん彼は日本の精神分析では草分けであり、また世界的に有名であったから、誰も彼を日本の精神分析にとって外部の存在だとか反逆者だなどとは言わなかったわけである。しかしやはりそのようなニュアンスはあったのであろう。そういえばこの「治療論から見た退行」を翻訳した中井先生もまた反精紳分析であったといえる。彼がこの本に出会ったのは、昭和51年春に、木村敏先生をはじめとする名古屋市立大学精神科の合宿集中読書会で取り上げられ、そこで大いに反響を呼んだことがきっかけであったという。この本が分析家ではなく、精神病理学者たちにまず受け入れられたというのも非常に興味深い話であろう。