もうこの「トラウマの身体への刻印」、何とかならないものか。一本の依頼論文のために、もう27回も続けている。
トラウマと自律神経の深いつながりについての研究に大きな貢献があったのが、メリーランド大学のポージス Stephen Porges が1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論(重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)であった。特に彼は従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。
ここで迷走神経についてのまとめ
そもそも迷走神経とは何か。少し復習である。頭蓋神経は12対あるが、その中では最長、唯一身体にまで長く伸び、結腸にまで及ぶ神経である。(それ以外の神経は、たとえば2番視神経のように、目までの距離はとても短い。) 感覚機能と運動機能をつかさどる。
感覚機能:身体部分(皮膚、筋肉の感覚)と内臓部分に分かれる。そのほか内耳、外耳、喉、食道、肺、器官の感覚。
運動機能:咽頭、喉頭、軟口蓋の刺激、心臓の拍動の低下、消化管の不随意運動。
迷走神経の障害
迷走神経はあまりに長く、あまりに多くの部位に及んでいるため、その症状も多岐に及ぶ。失声、嗄声、飲むこと、咽頭反射、耳痛、吐き気、嘔吐、胃痛など。
この迷走神経とトラウマの関係を解明する上で大きな役割を果たしたのが、上述のポリベイガル理論である。ポージスのこの理論の意義は、迷走神経が腹側と背側に分岐していることを明らかにし、それぞれの系統発生学的な由来について整理したことにある。特に腹側迷走神経(VVC)は従来あまり注目されてこなかったが、それは人が通常は警戒しつつも生きていくうえで大切な部分であり、特に社会での生活の中で発達していくという。通常はVVCを働かせることで心を落ち着かせ、危機を回避する。しかしそれでは対処できないような危機が訪れると、交感神経系を興奮させ、闘争逃避反応を起こす。しかしそれでも逃げられないとなると、背側迷走神経(DVC)が登場し、体をフリーズさせ、解離を起こさせるという。つまり今目の前で起きていることに耐えられずにスイッチしてしまう状態とは、このDVCが刺激されている状態というわけだ。ということはスイッチングの決め手になるのも迷走神経、ということなのだろう。
Porges, W. S (2011) The Polyvagal Theory. W.W. Norton & Company,New York ,USA
もうちょっと詳しく見てみよう。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化そのほかを司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまう。これが DVC に相当する。そして第二の段階は交感神経系である。さらに第三の段階は、有髄迷走神経 myelinated vagus で、VVCに相当し、これは哺乳類になって発達したものである。これは環境との関係を保ったり絶ったりするために、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類の迷走神経は、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり視床下部-下垂体-副腎皮質系、オキシトシンとバソプレッシン、免疫系などと共に進化してきた。
結局迷走神経は、系統発達的に古く、基本的には無髄神経だが、哺乳類になって、有髄の迷走神経が成立した、というのだ。この VVC もまた迷走神経核からしっかり出ているという。ポージス先生は、この新しい腹側迷走神経 VVC は通常は下位の、つまり古くからある交感神経系や DVC、つまり背側迷走神経を抑制しているが(昔から言われているジャクソン仮説だ)、ピンチの時は、この最新のシステムが停止してしまい、下位のシステムが働き出すという。
特にこの緊急事態の際の背側迷走神経による不動状態immobilization については、ポージスが本来哺乳類に備わった防衛であり、それにより酸素の消費を温存すべく、生体が体の機能をシャットダウンしてしまう機制なのだ。
ではこの自律神経系と解離との関係をどのように考えるか。分かりやすくいえば、解離とはこの迷走神経系のシャットダウン、つまり DVC の動因と深く関係している可能性がある。日常生活の中で突然予想外の事態が生じた場合、心が対応しきれず、一瞬にして活動する迷走神経の反射が解離を生むのではないか。考えれば解離に相当する偽死反応はあらゆる生物に見られる。サメなどひっくり返しただけで催眠にかかったようにすっかりおとなしくなってしまう。(赤ちゃんザメで実験している映像を見たことがある。)