2018年8月27日月曜日

ある「前書き」


本書は、精神分析的精神的セラピーを志す者にとっては極めて明快でかつ平易な言葉で書かれたテキストである。(ちなみに本訳書では心理療法、精神療法を「セラピー」と、療法家を「セラピスト」と呼んでいる)
本文からは著者○○女史の息遣いが伝わってくるようだ。精神分析を非常に積極的に日常臨床に取り入れようというその姿勢。そしてそれを確固たる精神分析的なトレーニングとそれに基づく治療理念が支えている。著者の頭には治療の設定、治療構造とはこうあるべきものである、というモデルが明確に備わり、その構造を厳守し、受け身性を保ち、転移解釈を中心とした技法を守るという姿勢が見られる。しかしそのうえで柔軟性に富み、患者に寄り添い、細やかな配慮を忘れない。このようなセラピストを持った患者やバイジーはさぞかし安定した治療の場を提供された安心感や心地よさを覚えるだろう。
患者は○○女史との治療では、時間が過ぎた後に少しぐずぐずしたり、よもやま話をすることは、あまり期待出来ないかもしれない。でもそこには「構造を厳守することで、あなたやあなたとの治療関係を大事にしているのですよ」というメッセージが同時に聞こえてくるだろう。つまり彼女は常に患者のことを考え続けてくれているのである。そしてこれが女史なりの分析的セラピーのスタイルである。
私はこれまでにスーパーヴィジョンや症例検討を通して、様々なスタイルのセラピストたちに接する機会を持って来たが、彼らの多くが精神分析的なオリエンテーションを有する。その彼らとのかかわりを通じて、「セラピストが精神分析を母国語とすること」について考えるようになってきている。サイコセラピーをライフワークとして選び、本腰を入れて学びたい人の多くは、精神分析をその入り口として選ぶ。それは精神分析には長い伝統があり、そのトレーニングの環境がその他のセラピーに比べて整っているからだ。そしてそこでフロイトを学び、転移解釈の重要さを叩き込まれて育っていく。それから後にそのセラピストがどれだけ精神分析以外の世界に触れ、どのように折衷的に、あるいは統合的になっていくかは、ケースバイケースであろう。ただしおそらく彼らの頭の中で依然として用いられるのは、精神分析的な概念である。
精神分析のトレーニングから入り、自分流のセラピーのスタイルを追求したセラピストの中には、最終的には伝統的な精神分析とはかなり異なるスタイルを確立するかもしれない。しかしそのセラピストはおそらく母国語である精神分析の用語を用いてその違いを語るだろう。たとえば「私は治療構造を重視する一方では、分析的な隠れ身は私は重視していません」などというように。そして私はその立場も精神分析的、と呼んでいいと思う。
その意味で○○女史は精神分析を「母国語」とし、しかし柔軟で豊かな感受性を持った、彼女流のセラピーのスタイルの完成形をここに示している。そのスタイルはかなり伝統に忠実でありつつ、それとは距離を置いた点も見られる。そのひとつが、終結をめぐる議論である。彼女は週4回を最後まで続けていきなり終結をするという伝統的な分析のモデルに異を唱える。また治療場面において贈り物を受け取る際に見せる柔軟さにも、彼女らしさが現れている。
本書が備えるいくつかの特徴は、自分なりの精神分析的なスタイルを模索するセラピストたちにとって大いに助けになるに違いない。特に第3章のフォーミュレーションの書き方、第6章の防衛的な患者の扱い、第8章のスーパーヴィジョンの活用、に著者らしさが表れている。これらの記述長年のスーパーヴィジョン経験を裏打ちされる具体的でかつ懇切丁寧なものであり、ビギナーのみならず指導者レベルのセラピストにとても参考になるであろう。
翻訳者○○氏も精神分析を基本的なアプローチとして経験を積んだベテランのセラピストである。彼女が分析的セラピーのスタイルを自分なりに作り上げる上で、○○女史のこのテキストは大きな影響を与えたことが伺える。それが彼女の翻訳の確かさに表れ、私が手を入れる必要はほとんど感じなかったことを付け加えておきたい。