2018年5月6日日曜日

精神分析新時代 推敲 71


プラセボの話に戻るならば、それが実際に痛みを鎮める効果を持つときは、本物の鎮痛剤と同じ効果を持つということになる。決して「気のせい」ではないのだ。プラセボが痛み止めとして効く場合には、決して「気のせい」ではないということが、脳の活動の可視化によってはじめてわかるというわけである。ちなみにこのプラセボ効果は、脳内麻薬物質の拮抗薬であるナロキソンで低下することが分かっているという。これなどもますます「気のせい」ではなかった証拠ということになるだろう。
 脳の可視化によって我々がひとつ教えられたことがある。それは患者さんの話をもうちょっと素直に聞くことだ。プラセボの問題にしても、その他の様々な身体症状も、内科で何も異常な検査所見が見つからないと、その後は「症状は精神的な問題で引き起こされます。ウチでは治療の仕様がありません。精神科に行ってください。」となり、その精神的な問題とは、あたかもそこにないもの、気のせいで生じて来ているものというニュアンスを与えられてしまう。しかしこれらには明らかに脳科学的な基盤が与えられている。患者さんの心のせいではないのだ。脳の可視化によってわかってきていることは、患者さんの言っていることは大概は本当だったのだということである。
アスペルガーの脳科学
 ここで少し脱線であるが、私が最近臨床上考えさせられることの多いアスペルガー障害についても論じてみたい。アスペルガー障害を持つ患者さんはいわゆる「定型発達」とは異なる脳の部位を使って情報が処理されていることが分かっている。彼らはわざとことさら人の気持ちがわからないように振る舞っているだけでではなく、実際に人の心を理解することが不得手というわけであるが、彼らはその代り、通常の人が使うのとは別の脳の部位を用いて、人を理解しようとしていることが最近の研究で示されているという。ここに示しているのが、その研究から引用したものである。図201a (省略) は顔面を認識している時の脳の活動部位で、bは物体の認識をしている時だ。ここではアスペルガー障害の人の場合に、通常の人に比べて右の下側頭回という部位の活動が増えて、右の紡錘状回が減るということが起きている。要するに脳の違う部位を使ってアスペルガー障害の方は物を識別しているということをこの研究結果は示しているのだ。これに関連して、アスペルガー障害では脳の中のいわゆる「共感回路 empathy circuit」に障害があるとされている。それはVMPFC(腹内側前頭前野)という部位を中心としたものだ。普通の人なら人の心を理解する際はこの共感回路が活動を高めるわけだが、アスペルガー障害の場合はここがうまく働かない。すると共感が難しいというのは脳の器質的な問題というふうに研究者が主張するのにも理由があるわけである。これらの研究を受けて、いわゆる発達障害が親の養育によるものであるという従来一部に見られていた考えに対する反証が示されていることになる。
 以上いくつかの例を示し、脳の可視化が我々の心の理解に及ぼす影響について示したつもりであるが、実は脳科学が私たちに心の在り方を明らかに示してくれている、というには程遠いと言わなければならない。せいぜい、「脳でも何かが起きているのだから、患者さん本人の『気のせい』とばかりは言えない」という以上の具体的な何かが示されているのは程遠いと言わなくてはならない。むしろ脳の一つの活動を取っても、様々な部位が関与しているらしい、ということが示されていない。要するに可視化が進むことでいかに脳の活動が複雑なのかということがわかったとしても、それ自体が脳の在り方をどの程度教えてくれるかと言えば、むしろその謎は深まったとさえいえるだろう。