2018年4月30日月曜日

精神分析新時代 推敲 67



初出:精神療法の倫理 「臨床精神医学」第471月号(2018)


はじめに
精神分析療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の活動の隅々にまで関係してくる。まず倫理について考える素材として、簡単な事例を挙げることから始めたい。
ある夏の暑い日、(省略)
このような反応は、特に駆け出しの治療者にはありがちであろう。そこで次のように問うてみよう。この治療者の行動は倫理的だったのだろうか? 
 もちろんこの問いに正解はないし、この治療者の行動の是非を論じることが本稿の目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、この治療者の行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を治療者である私たちは忘れがちだということである。それらの二つとは、
  「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という考えまたは原則に従った行動だったか?
   クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
である。そして筆者が長年スーパービジョンを行った体験から感じるのは、このうちに関連した懸念が治療者の意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「治療者として正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にある治療者の頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告する際に、「それは治療者としてすべきではありませんね」と言われることを恐れているかもしれない。それはすなわち上のへの懸念を促すことになり、それに従った場合は、事例の治療者のように「面談室での飲食は禁止」という治療構造は守られるだろう。しかしそれは同時にを検討する機会を奪うことになりかねない。そしてその結果としてミネラルウォーターを拒まれたクライエントは、その好意を無視されていたたまれない気持ちになってしまう可能性も生じるのである。
 ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなろう。それは1970年代より提唱されている、慣習的倫理か、道徳的倫理か、という分類である。その提唱者の一人である Elliot Turiel1977)は、「慣習的なルール conventional rules」と「道徳的なルール moral rules」との区別を挙げ、次のように説明する。すなわち前者は地域や文化に依存し、守られなくても具体的な被害者は出ないが、後者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るのである(Kelly, 2007)。
 この分類は前出の①,②におおむね相当すると言えるだろう。そして治療者が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなる可能性がある。もちろんこれら①、②の間に優劣の関係はない。これらは倫理の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。①を犯すことは、たとえば治療者として守るべき治療構造を揺るがすことになるかもしれない。しかし②を犯した場合には、目の前の患者の気分を損ね、治療関係に大きな影響を及ぼすかもしれない。治療者として常にこの二種類の倫理の存在を念頭に置くことはその治療関係を維持するうえでも極めて重要となるのだ。そしてその上で言えば、現在の精神療法の世界では、従来の慣習的な倫理を重んじる立場から、道徳的な倫理を重要視するという方向性への転換が見られるのだ。そしてこの転換は、特に精神分析的な文脈において顕著にみられたという事情を以下に示したい。

精神分析における倫理の問題
精神分析における倫理の問題については筆者は別の論考(2012)で考察を加えているが、そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
 フロイトが精神分析の治療技法ないしは治療原則として示したものは、匿名性、禁欲原則、中立性などの治療原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性も指摘されるようになった。精神分析の草創期には、「いかに倫理的であるか?」ということと、「いかに治療原則を遵守し、転移解釈に力を注ぐか?」ということの間に本質的な区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることこそが患者の利益(症状の改善ないしは自己洞察の深まり)につながると考えられたからだ。すなわちそこで主として問題となっていたのは、上述の Turiel の分類で言えば、「慣習的な倫理」であった。他方では当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るという、反道徳的な問題が後を絶たなかったが、フロイトはそれに懸念を表明してはいたものの、弟子たちを厳しく戒めることはなかった。
 やがて米国では1960、70年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果に関する研究への失望(Wallerstein, 1986)や、境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な治療原則を厳格に遵守するという立場よりも、実際の臨床場面で治療者がいかに支持的な介入を交え、柔軟に接するかに治療者の関心が移行したからである。さらにフロイト自身は実際には自らが唱えた基本原則からかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, et al. 1998)も、そのような変化の追い風になった。また「オショロフ VS チェストナットロッジ」の訴訟(薬物療法を行わずに精神分析を行ったことで回復が遅れたために、患者本人が病院に対して起こした訴訟)を通じて、精神分析においてもそれを開始する前に、その方針の利点やそれによる問題点などを明確に示して了解を取ることが必要とされるようになったのである。筆者はそのような流れについて、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」へと変遷したとして論じた (2012)。たとえば Ralph Greenson の「転移の解釈は、それが抵抗となった際に扱う」(1967)というような、分析療法を効果的に進める上での教えがこの「経験則」のよい例であろう。最近の米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, 2001)もそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施すべし」と書いてはいない。むしろ以下の倫理項目(抜粋)は、それにある意味では逆行しているとの印象すら受ける。
・ 理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。(「コンピテンス」2)
・ 分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(「コンピテンス」3)
・ 患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。(「相互性とインフォームドコンセント」5)
これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んで分析家の治療のあり方を具体的に示しているわけではない。むしろ分析家は治療原則に厳密に従うことなく、それを柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち匿名性や中立性の原則などは、「必要に応じて適用される」という形に修正され、相対化されざるを得ないのである。
 ただし禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」は、まさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」の方は関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているのである。 
 ちなみに精神療法における倫理を考える上では、米国の精神分析協会だけでなく米国心理学会の動きにも注目すべきであろう。米国においては精神分析に先駆けて1950年代には 心理学会で倫理原則 ethics code を作成する動きが生じていた。これは第二次大戦で心理士が臨床に多く携わった結果として生じたことである。そこで生じた倫理上の多くのジレンマが、この倫理原則を作成する動因となった。現在すでに9回改訂されているが、その最新版(1)には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば「導入と応用範囲」には、 (1) 専門家としての判断を許容する。(2) 起きうるべき不正、不平等を制限する。(3) 広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒する、とある。すなわちここでも大きな流れとしては、細かな技法にとらわれず、より道徳的な倫理を重視するという立場がうたわれているのである。

現代精神分析における「倫理的転回」の動き
歴史的に見て、精神分析の流れは心理療法一般の流れを先導する役割を担ってきたという側面があるが、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における倫理の問題の展開についても紹介しておこう。Irwin Z Hoffman (1998) によれば、技法について論じることは、治療において弁証法的な関係を有する両面の一方にのみ目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動においては「技法的な熟練」という儀式的な側面と「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立している。ここで言う「技法」は、フロイトの提唱した治療技法に相当するが、Hoffman の説に従えば、それは分析家の患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎず、分析家の持つもう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、同じ人間である、という面での関わりに常に裏打ちされている。そしてこの二つの側面は、すでに述べた二つの倫理、すなわち慣習的倫理と道徳的倫理に対応すると考えられる。すなわち技法的な側面は、治療者としてなすべきことを行うよう促し、自発的な側面は「特殊な種類の愛情や肯定」を患者に提供する道徳的な配慮に対応する。そして Hoffman によれば、この倫理的な二両面もまた弁証法的であり表裏一体の関係を有するということになるのだ。
 以上の Hoffman の視点に反映されるように、精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことには、精神分析における新しい動きが関係している。富樫 (2016) は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介している。この倫理的転回は、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念に対応するものとして提唱された。関係論的転回は、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在しないことを示す。そして「倫理的転回」は、心を扱う上での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在せず、むしろ治療場面における二者関係そのものに注目すべきであるという、新しい心の理解であった。その意味でこの倫理的転回は「精神分析の行動規範や価値観の転回」として言い表すことが出来るという。もちろんこの倫理的転回が直ちに治療者がいかに振る舞うかという具体的な指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の転換を反映するものであり、それは先に見た規範的な倫理から、より道徳的な倫理を加味した視点への発展的な転換と言い表すことが出来るであろう。このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち「理論に左右され過ぎてはならない」という項目とも一致するのである。
身近に出会う倫理性の問題の例
最後に精神療法を行う際に必要となる倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、三つを挙げて概説しておこう。
.インフォームドコンセント
治療者の側の倫理としてまず問題とされるのが昨今議論になる事の多いインフォームドコンセント(IC)であり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。ICとは患者に治療の選択肢としてどのようなものがあり、どのような効果やリスクが伴うのかを説明した上で、治療の合意を得るプロセスである。そしてその前提となるのが、患者の問題についての見立てを情報として伝え、必要に応じて心理教育を行なうという能力である。これらをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。ちなみにこの IC の考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。治療の内容についてあらかじめ患者に語ることは余計なバイアスを与え、治療者のブランクスクリーンとしての機能を損なうものと考えられる傾向にあったからである。しかし現代的な精神療法においては、治療者側がより謙虚に自ら行う治療のメリットとともにその限界を把握する姿勢が求められているのである。
.個人情報と症例発表の承諾
学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に患者から得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化したりする場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという自由な選択肢が与えられているかという問題だ。この問題に関連し、Gabbard  (1995) は以下のように述べている。
[治療を記録してスーパービジヨン等に用いることについては] このアプローチの主要な欠点は、治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということや、そのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということである。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(p.228
このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。しかし症例提示は精神療法家としてのトレーニングや学術交流のために必要不可欠なものである。そのためにこの問題について深刻に論じること自体が一種のタブーとなりかねないであろう。ちなみに筆者は過去に公開された症例を積極的に再利用することは、この問題を回避する手段の一つとなりうると考えている。
3.境界侵犯
境界侵犯の問題は、精神分析が始まって以来の懸案であった。フロイトの多くの弟子が患者との親密な関係を持つ結果となった。当時の分析家たちには治療構造や境界の意識が低く、また逆転移への理解も十分でなく、フロイトの直接の弟子である Carl Jung Sandor Ferenczi Ernest Jones も患者との性的な関係を持ち、フロイトがそれをたしなめる必要があった。しかしその後は逆転移に関する理解が進むとともに、あらゆる治療者が境界侵犯に陥る危険を有するものとして、比較的オープンに語られるようになった。
 境界侵犯は現実的な問題でもある。少し古いがある米国での報告では、510パーセントの治療者が患者との性交渉を持ったことを認めたという(Pope, et al, 1986)。この問題について Gabbard (19952001) の示す視点が興味深い。彼は境界侵犯を特に上級の分析家が犯した際の、組織ぐるみの抵抗 institutional resistance が生じることを観察している。彼はまた境界侵犯を犯した治療者の心理テストから、彼らが必ずしも自己愛的で反社会的な所見を示すわけではなく、むしろ寂しさや対人関係を持つことへの飢餓感を表していたという。
以上本章では精神分析的療法における倫理の問題に関して論じた。今後の精神分析療法においては、この倫理の問題はますます重要性を増すと考える。

文献) 省略