2018年3月17日土曜日

精神分析新時代 推敲 37

6章 無意識を問い直す-自己心理学の立場から

「精神分析は無意識を扱う学問である」ということは、あまりに自明なことだろう。しかし私が日ごろ感じるのは、分析家たちは、無意識をやや気軽に扱っていないだろうか、ということだ。いや、無意識という概念が軽視されている、と言っているわけではない。無意識は分析家にとってはとても丁重に扱われているのは確かだ。しかしその無意識という概念の持つ意味を果たして常に問い直しているのだろうか? フロイトが述べたような無意識、すなわち抑圧された心の内容がそこに押し込められているような場としての無意識の存在を前提とすることに、分析家たちはあまりに無反省ではないか、と問うているのである。
しかし精神分析には、無意識の重要性を否定はしないものの、そこから関心を逸らせている理論も存在する。広い意味では自我心理学がそうであろう。自我心理学は無意識的な欲動を解釈により明らかにするという試みから、その欲動に対して自我により動員される抵抗や防衛に焦点を移したのである。そうしてもうひとつがHeinz Kohutの創始した自己心理学である。自己心理学においては共感という概念の重要性が唱えられる一方では、そこに無意識がどのようにかかわるのかについての議論は少ない。本章ではこの自己心理学において扱われる無意識を通して、その概念の意味について考え直したい。

「内省・共感」は無意識に向けられるのか?

 Kohut の出現は、米国の精神分析界でも特異な出来事であった。彼は無意識の存在を真っ向から否定しているわけではないかった。しかしその概念にほとんど触れることなく、むしろ自己と他者との関係性にその関心を向けたのである。
Kohut 1971年に「自己の分析」(Kohut, 1971) により、独自の精神分析理論を打ち出した時、その理論的な構成が従来の精神分析とは大きく異なることは明白であった。特に自我ego に代わる自己 self の概念や、共感の概念は極めて革新的といえた。Kohut はそれを従来の精神分析に対する補足であるとしたが、当時の精神分析界からはそのような受け止められ方をされなかったのも無理はなかったのである。
 Kohut 理論の実質的なデビューは「自己の分析」に10年以上先立つ1959年の論文であった。「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,1959というその論文は、その後に展開する基本的な概念のいくつかを旗幟鮮明な形で打ち出している。それはそれまで「ミスター・サイコアナリシス」とまで呼ばれ、古典的な分析理論に基づいていたKohutが打ち出した、まったく新しい路線だったのである。そこでこの論文をもとに、Kohut にとっての無意識の概念について探ってみよう。
 この論文でKohut は、内省と共感が精神分析にとっていかに重要かについて繰り返し強調している。彼は共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection」であり、人の心に入り込んで我がことのように内省をすることだと説明する。それ以後これら両概念がほとんどペアのように登場するため、本論文でもこれ以降は「内省・共感」と表記することにしたい。
 実は古典的な意味での無意識の概念とKohut 理論とは、この内省・共感を強調した時点で折り合いがつかなくなっていると言ってよいだろう。そもそもフロイトにより始まった精神分析とは、つきつめて言えば、無意識を理解する営みである。他方内省とは、自分の心の中を見つめることであり、その対象は理論的には意識内容ということになろう
 内省を、心といううす暗い部屋の中をサーチライトで照らす行為にたとえてみよう。そこで照らされる内容は今、この瞬間に意識化されていること、意識内容ということになる。そして照らそうとしても見えないものが無意識であり、それはその部屋にある特別な箱に入っていて、ふたが閉まっており、サーチライトで照らしても、その中は見えないことになろう。
 ところがこの論文でKohut が主張しているのはそれとは異なる。彼は内省・共感により、無意識や前意識における見えないものも推論できると主張しているのだ。それをKohut は彗星の動きに例えている。彗星が見えているうちに観察していれば、それが見えなくなってもその動きを推察できるようなものだ、と彼は述べている。「私たちは思考とかファンタジーを内省により観察し、それが消えたり再び現れたりする条件を知ることで、抑圧という概念に到達する。」(p. 463
 このようにKohutは無意識的な心的内容についても内省・共感できるかのような書き方をしている。今この瞬間には直接見えていなくても、「見え隠れする様子」からその存在を伺える、というわけだ。これはこの彗星のような動きを人の心の内容についても見出すことが出来る限りは正しい議論だろう。心の部屋の特別の箱(無意識)に入っているものが、時々出入りするならば、今は見えなくてもそこに入っていることが推察できることになる。
 
しかしKohut が次に例としてあげているものはその種のものとは異なる。彼はある人が山の上から石を落して、それが下の人に当たって死んでしまったという例を挙げて述べる。「もしそこに私たちが共感することのできる意識的、無意識的な意図があったとすると、それは心理学的な行為であったということになる」(P. 463)。と説明するが、
このそっけない記載は一種の肩透かしのようである。その人が意図的に、たとえば心の中で「この石をあの人に狙ってやろう」とつぶやきながら石を落すことは想像が出来よう。しかし「無意識的な意図」にどのように「共感」することができるのだろうか? もしこの人の心の中で、人を殺そうという意図が「見え隠れ」しているとしても、私たちはそれを彗星の動きのように明確に知ることなどおよそできないであろう。すくなくともKohut がさりげなく「意識的、無意識的な意図」という表現で「意識的」に並列させている「無意識的」な意図は、前者とは比較にならないほどに自明性を欠いている。それこそ晴天の日にスカイツリーから見る富士山と、曇りの日のそれとの違いくらいはあるはずだ。