2018年3月15日木曜日

精神分析新時代 推敲 36

自己開示ってナンボのものだろう?
     
 私が自己開示について精神分析の専門誌に発表した最初の論文は1990年代のものであるが、その頃は日本の学会では全く問題にされないテーマであった。しかしそれから時代が移り、最近では自己開示派臨床家の間では問題になることが多くなってきた。しかしそれでもこれを正面から扱った本は皆無と言ってよい。実際インターネットで「自己開示」を検索してみれば、そのことが確かめられる。文献としては筆者らによる文献(岡野その他、2016)以外には全くと言っていいほど検索にかかるものはないのだ。

岡野 憲一郎,‎ 吾妻壮,‎ 富樫公一,‎ 横井公一(2016)臨床場面での自己開示と倫理―関係精神分析の展開 岩崎学術出版社.

 「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、一つの論争の種として分析家たちの間で存在し続けている。この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会所属でウィニコット派のA先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の、しかも私が敬愛している先生方からでさえ否定されることがあるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけもなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」という、私にとっては極めて妥当な言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスのデスクにはふつうは所持品が無造作に置かれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。彼(女)の服装にはその好みの傾向が反映されているであろうし、治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示しているはずである。そしてそれが現代的な精神分析の考え方でもある。
 ここから一つ言えることは、伝統的な精神分析の本流にとっては、自己開示は奨められない、認められないであろうことは確かなことだということだ。しかしそれでも「認めない」派の先生方はおそらくこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」
 つまりは自己開示を認めるかどうかは、それが精神分析的かどうか、という点にかかっているといえる。そして自己開示の真の価値があるしたら、それは「正統派」の精神分析を外れたところにということであろう。