すべての源泉としての「活動性」と「動き」
暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が大きく分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であることはすでに述べたが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。私は数々の凶悪犯罪を犯した人々が存在することを十分に知っているが、それらの人たちの中には、生まれつき血に飢えたかのような特異な行動を人生の早期から示す人も多い。それらの人たちにとっては、攻撃性は本能的なものとして備わっている可能性も否定できないと思っている。そこで私が本章で述べたいのは、幼児期に見られる攻撃性や暴力の大部分は、本能以外で説明されてしまうということになる。そしてそれに関しては精神分析家D.W. Winnicott の立場に近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性 activity と動きmotility であるという(2)。
<以下追加部分>
Winnicott は Melanie Klein の同時代人ということもあり、また一時はクライン派の一員と目されていたこともあり、攻撃性や死の本能という問題については人一倍関心を寄せていた。しかし最終的にはそれをKlein の様に人間に本来備わった本能と考えることは拒否した。その代りに彼が重視したのは、攻撃性とは注意深く区別された破壊性 destructiveness ということである。これは赤ん坊が手足を動かし、時には結果的にものを破壊するという形をとるものの、赤ん坊が対象を痛みを持つ全体対象としてとらえる前の現象とし、それを前慈悲 pre-mercy とした。そしてそれを母親などの対象が攻撃としてとらえることなく、怒りや報復などを向けないことで(「生き残る」ことで)、子供はその対象を外界に存在する自分とは独立した良い対象として認識していくと論じた。このロジックは非常に美しく、また現実の乳児の心の在り方とも対応していると私は考える。