以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者本人よりは治療者のような周囲の人が気づきやすいような、患者自身の特徴や問題点を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者の仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者の耳には直接入っていない噂話かもしれない。
この場合にも治療者が出来ることに関しては、上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性が確かにあるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字の意味するものが患者にとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は、外から植えつける「示唆」的であっても、それが患者にとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも了解されるだろう。
4.具体例とその解説
ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたい。
<省略>
私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるだろう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその患者にとって盲点となっているらしい事柄の存在に気が付く。
<中略>
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その「習得」を試みるにはどうしたらいいであろうか? 私の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否がかかっているというべきだろう。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、患者の有する様々な生活史のパターンを認識する必要がある。しかしそのうえで虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるだろう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるだろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのである。