第16章 治療的柔構造の発展形
治療的柔構造の発展形 ― 精神療法の「強度」のスペクトラム
週一回サイコセラピー序説 創元社 2017年 所収
初めに
S.フロイトが精神分析を始めたときは、週に6日のカウチを用いたセッションが原則であった。しかし1930年代にフロイトに直接面会をして精神分析を持ち帰った古沢平作はわが国で週一回の精神分析を始め、それが私たちの一つのスタンダードになったという経緯がある。そして1993年にいわゆる「アムステルダム・ショック」があった。これは日本でのそのような慣習が国際精神分析協会の知るところとなり、改善命令を受けたというものである。その後はわが国でも国際基準に準じた形で精神分析のトレーニングシステムを整備し、4回以上の、原則的にカウチを用いた構造を精神分析と呼ぶようになった。しかしそのような機運の中で北山修監修の「週一回サイコセラピー序説 (創元社 2017年)が出版された。本章はそこで掲載された論文をもとにしているわけである。
ところでこの「週一回サイコセラピー」というテーマは、私にはどうも「謝罪的」なニュアンスを帯びているように思える。「精神分析は本当は週に4度でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があるよ、でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えません、分かっています」というニュアンスである。しかしそれは同時に一種の戒めでもある。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な響きがあります。さらにこれは時間についても言える。一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ、というメッセージがある。
私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して、疑う傾向がある。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する違和感というべきだろうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのだろう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思う。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対してそうなのである。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧く。だから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親和性を感じるのだ。心理の世界では脳科学がそれに相当する。まあ、話を元に戻しますと、「週一度、50分でなくてはならぬ」に反発する。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれる。週4回は私は実行していますし、それを理想化する部分が確かに私の中でもある。しかし私が持っている患者さんの多くが、それを満たさない以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのだ。
私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して、疑う傾向がある。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する違和感というべきだろうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのだろう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思う。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対してそうなのである。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧く。だから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親和性を感じるのだ。心理の世界では脳科学がそれに相当する。まあ、話を元に戻しますと、「週一度、50分でなくてはならぬ」に反発する。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれる。週4回は私は実行していますし、それを理想化する部分が確かに私の中でもある。しかし私が持っている患者さんの多くが、それを満たさない以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのだ。