2018年1月5日金曜日

エナクトメント 2

Auchincloss, E. L. and Samberg, E. (2012). Psychoanalytic Terms and Concepts. にある「enactment」の項目である。まあ、これが国際精神分析協会お墨付きの、エナクトメントについての説明ということになる。少しずつ訳してみよう。コメント付きで。

Enactment is a co-constructed verbal and/or behavioral experience during a psychoanalytic treatment in which a patient's expression of a transference fantasy evokes a countertransference “action” in the analyst. Enactments are “symbolic interactions” (Chused, 1991) in that they carry unconscious meanings for both patient and analyst, unconsciously initiated by the patient and evoking unconscious compliance in the analyst.
E(以下、エナクトメントのこと) は、分析にある両者が共同に構築したもので、患者の転移空想の表現が、分析家に逆転移「アクション」を引き起こすことを言う。Eは象徴的な交渉 symbolic interactions (Chused, 1991) であり、それは患者と治療者の双方にとって無意識的な意味を担うからである。それは患者により無意識的に開始され、分析家に無意識的な迎合 compliance を引き起こす。
<コメント>まずここまで。オーチンクロスの書いていることからすると、Eは分析家の側の行動、ということになる。ふーん。ただしEはそれが患者の側のものであっても、両者の創造物だということは、あまりこだわらないということか? だったら別に治療者の方に限定する必要もないのに??? うーん、何か違う気がするなあ。まあ先にいこう。 
Because enactments attempt to actualize unconscious fantasies, circumventing reflection by either the patient or analyst, they are resistances. However, enactments may also be communications of something that the patient and analyst cannot yet tolerate knowing. Enactment has also been defined and conceptualized from a relational or interpersonal perspective as the expression within a psychoanalytic treatment of a patient's dissociated self state, which, from this perspective, is the only way that such experience can be accessed.
Eは無意識的な想像を現実化 actualize する意図があるため、患者と分析家の両方がその内省を回避する試みなので、それは抵抗である。しかしEはまた、両者が知ることに耐えられないことを伝え合うものでもありうる。Eはまた関係論的、対人関係的な見地からは、分析治療の中における患者の解離された自己状態の表現であると理解されてもいる。

<コメント>まあEを現実化と言い換えるというのはいいだろう。この言いかえはアリ、という共通理解ということで。そしてそれが無意識的なものの表現だというのもわかる。ただし私はこれを精神分析的な文脈で理解しているが、一歩外に出ると分からない。Eは象徴である、という理解は、無意識を前提としている。しかし無意識とは?? 例えば私がある人との別れ際に「お疲れ様」と言ったとする。その人はそれに反応し、「私と会って疲れたんだ」と、そこに特別の意味を感じたとする。これはEだろうか?たまたま偶然でも? Eの概念の持つ問題は、それをEとして取り扱うか、その場合にどのような無意識を象徴していると考えるかも含めて、あまりにも文脈的で、非決定論的ということか。ちなみにのちにも出てくるホフマンの「互いのEを検討し合う」はすごく面白いと思う。しかし問題はそれがどこまで平等に行われるか、である。
 (臨床例 ← 省略)


まあこんな感じだと悪くないだろう。でもこれは相当ざっくばらんな会話という感じになるぞ。ブンセキテキでない、と怒られてしまうだろう。