2018年1月27日土曜日

精神分析新時代 推敲 2

「共感と解釈」について― 本当に解釈は必要なのか?
小寺セミナー 2017723日にて発表

精神分析的な議論において、「解釈中心主義」という言葉が聞かれるようになって久しい。だいたいは否定的な意味で用いられるようだ。もちろん正式な用語でもないし、精神分析学の事典に載っているわけでもない。「私の立場は解釈中心主義ではありません」という時は、「私は解釈だけが治療手段だとは考えていません」という主張を意味している。それはそれ以外の様々な支持的なアプローチを容認している、という立場表明のようなものである。しかしそれでも「解釈中心主義」的な発想を持つ治療者は少なくない。精神分析の最終目標は洞察を得ることであり、そのための解釈は必須であるというのがその主張の根幹にある。「解釈中心」の考え方が精神分析家の一定の層に広がっているからこそ、それを批判するようなこの言葉も存在するのであろう。
それが証拠に「共感中心主義」という言葉は聴いたことがない。精神分析の世界では、「共感」は解釈とは対極にある概念の一つとして用いられることが多い。そして「共感中心主義」とは当然ながら、「共感こそが最も中心的な治療手段である」という立場をとる人ということになる。しかし精神分析の世界で自分がこの立場だということは勇気のいることである。なぜならそれを表立って表明すると、必ずどこかから「共感ばかりでは患者さんの洞察は得られないだろう。」という主張が聞こえてくるからだ。解釈により得られる洞察よりも、共感の方がより本質的であり大事だ、という議論はほとんど聞かれないといってよいだろう。百歩譲っても、洞察は最終目的であり、そのための解釈を受け入れてもらうためには、まず共感が必要であるという言い方がなされるのである。そしてもしそれでも「共感だけでもいいのだ」という主張をしようものなら、最後通牒を突きつけられる。
「それは精神分析ではありません。」
私は分析学会の会場でそれを提唱しようとは思わないが、その代りに次のように申し上げることが妥当であろうと思う。
精神療法においては、洞察と共感はその両輪なのだ。
ここで私は解釈と共感が両輪だ、とは言っていないことに注意してほしい。「洞察と共感」、なのである。洞察は様々な経路を介して至る可能性がある。決して解釈のみにより導かれるのではない。たとえば「自分は○○さんに対する深い感情を抑圧していたのだ」という洞察を考えた場合、それはさまざまな事情から、気づかれるかもしれない。○○さんと話をしていて気が付かれるかもしれないし、友人に指摘されるかも知れない。誰かに共感をしてもらえることでいたるかもしれないし、もちろん治療者に解釈を与えられてそこに至るかもしれない。しかしそこで洞察が解釈のみにより至らしめるという姿勢は、しばしば治療関係に有害に働く可能性がある。そこに至るべきさまざまな別の経路を塞いでしまいかねないからだ。
解釈が何より重要である、という主張に対して、たとえば次のような事例を提供して反論したい。
いったい解釈を求めるという分析家の試みはどういう意味をこのAさんにもたらしたかを考えると目を覆うばかりである。もちろんこれは治療に役立たない解釈の例に過ぎない、という主張もありえるだろう。しかし普通の能力を持った、平均的で常識的な分析家は、good enough な解釈をどれほど提供することが出来ているのだろうか?