2018年1月3日水曜日

パラノイア 推敲 6

 それにしても自己愛とパラノイアの結びつきにどうして気がつかなかったのだろう? あるいは私が強引に関連付けているだけだろうか? 自己愛の風船が大きくなった末には、独裁者はみな被害妄想を発揮する。それが定番なのだ。どうして「僕がどんなにすごいか見て欲しい」(自己愛)が、「こいつ()は悪意を持って俺を追い落とそう(殺そう)としている」(パラノイア)になるのだろう?そこが分からないのだ。パラノイアは内沼の図式にも出てくる。彼は次の様に書いている。引用しよう。(「対人恐怖の人間学」(内沼幸雄著)より。)

 これらの病型をみてみると、そのうちのあるものは被害妄想へ、また別のあるものは誇大妄想へと、相反する方向に向かっている。しかし実際には、一般にこれら二つの基本方向は、同一症例に同時に併存してみられるのがふつうである。この矛盾した両方向性がひとつの人格のなかに際立った葛藤を生じさせながら相互に関係し合って存在するのがバラノイアの特徴であり、この点は後にクレッチマーによって強力性と無力性の矛盾構造として定着されることになるが、この相互の関連性をも含めてクレペリンは、次のようにのべている。
《パラノイアの本質的な基盤のひとつを成しているのは、自己感情の高揚であるように、わたしには思われる。そこからまず、一方では高みに飛翔する計画が、他方では、とくに精神病質者においてその圧力が頂点に達するところの生存競争の諾困難に対する感受性の亢進が生じてくる。同時に、人生経験が著しい情動負荷を受けるために、それについての個人的色彩のつよい解釈や価値判断が促される。こうして誇大観念や迫害観念の発展の前提条件が与えられることになるのである。しかし、パラノイア性という意味での妄想形成がなされるに至るには、ある種の原初的な思考習慣を永続させるところの部分的発達抑制のために生じる、思考作業の不十分性に待たなくてはならない。そのようなものとして、白日夢や、自己中心的な人生把握や、浮上する観念への無批判的な献身などへの傾向があげられる。》

 クレペリンの説に一理あるのは、自己愛については、世界を個別の人々の集まりではなく、全体として、自分を是か非かのいずれかと見なすような対象としてみているということがある。自己愛の人は誰かに向かって話す talk to people のではなく、誰かの方を向いて(自分のことを話す talk at people という違いがあると Gabbard  さんが言っていた。周囲が賞賛をしているうちは心地よい。しかし一歩間違うと反転する。周囲はこぞって自分を馬鹿にしているということにもなるのだろう。だから自己愛とパラノイアは非常に近い関係にある。従来の独裁者の末路である。また独裁者は意外なほど孤独であるという事情もあるだろう。誰も怖くて近づけないからだ。太陽が自分の放つ光のために近づくものを燃やしてしまうのと同様、独裁者は周囲が近づけないようなオーラを放つ。(あるいは周囲が勝手にそう感じる。)それがパラノイアの素地と言っても過言ではない。