日本文化や日本社会における人々の関係のあり方は、これまで様々に形容されてきた。それは恥の文化と称されたり(ベネディクト)、甘えの社会(土居)と理解されたりする。また一般的に人々は和を好み、争いごとを避ける傾向にあるという指摘も多い。私はこのような特徴を対人間の敏感さと受け身性という観点からかつて捉えたことがある(岡野、1994、2017)。しかしそこであまり強調しなかったのは、そのような日本社会において、人は同時に特異なストレスにさらされているということであろう。
たとえば日本においては集団の利益が個人のそれに優先されるという傾向は欧米社会の人々にとっては奇異に映るかもしれない。私が長期間の滞米生活を終えて帰国して驚いたことは、自分に残っている有給休暇の日数を同僚は誰も知らず、また気にもしていなかったということである。アメリカでは労働者は与えられた有給休暇は使い切ることが常識だが、日本ではそんなことをする人は極めて少ないようである。あるいは日本人の長時間労働はどうだろう? 就業時間が来ても帰る人がいない、というよりはそんなことをすると周囲から変な目で見られるのだ。また日本の会社員はひげを蓄えている人が非常に少ない。上司に対して偉そうに見えてしまうからだということを聞いた。確かに自由業や企業主には多いという傾向がありそうだ。
対人関係における敏感さが生む対人ストレスが及ぶもう一つの場面はある意味ではより深刻かもしれない。それは幼少時における親子関係である。日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれた挙句にその事実を知り、親からの独立や解放を望む。しかしそこに一つの試練が待っている。そこでは親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取るという交流が生じる。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマがある。母親は娘との情緒的な交流において過剰な期待をし、娘に自分を受け入れ、すべてを察してもらうことを望む。それは他方にある夫との関係の希薄さにより、増強されるだろう。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多いのである。
これらの問題と依存や甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう人間関係が注目され、ある意味で重視される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。