2017年9月14日木曜日

第 7.5 章 対人恐怖の精神分析  ①


そもそも対人恐怖とは

わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害という呼び名がそれに相当するだろう)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章の中心テーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考えるならば、わが国における精神分析の草創期の、森田の姿勢を思い出す。リビドー的な理解を試みる分析学派の論着に対して、森田生馬は果敢に論戦を挑んだと祝える。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
 まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。
私個人は、対人恐怖とは「自己と他者と時間とをめぐる闘いの病」と表現することが出来る。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的に関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。表現者の表現は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。絵画や小説などを考えればいいであろう。両者とも作品はすでに出来上がっている。それが公開される瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもよく、それがいつ、どのように公開され、どのような聴衆の反応を得ているかについてまったく知らないでもすむのである。それに比べて時間的な表現とは、今、刻一刻と表現されるという体験を経ている。そしてこの後者こそが対人恐怖的な不安を招きやすい自己表現である。それは以下のような事情による。
私たちは社会生活を営む際、自分自身の中で他者への表現を積極的に行う部分と、なるべく隠蔽しておく部分とをおおむね分け持っているものだ。社会生活とは前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことである。このうち無時間的な表現は、上述の通り、それが人目にさらされる際に作者は葛藤を体験する必要はない。しかしそれが時間的なものであり、時間軸上でリアルタイムで展開していくような「パフォーマンス状況」(岡野、1997)では事情が大きく異なる。もしパフォーマンスが順調に繰り広げられるのであればさしあたり問題はない。人は自己表現に心地よさを感じ、それがますます自然でスムーズなパフォーマンスの継続を促す。しかし時には何らかの切っかけで、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きうる。そこで時間をとめることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。対人恐怖とは時間との闘いであるというのは、そのような意味においてである。


対人恐怖の症状に苦しむ人は、通常はある逆説的なかの切っかけでではしているという。いるという。現象に陥っている。それは自分の中の表現されてしかるべき部分と同時に、隠蔽すべき分も漏れ出してしまうという現象である。