2017年9月1日金曜日

第5章 「自己開示」を問い直す

自己開示ってナンボのものだろう?

         
私はこれまでに自己開示についていくつかの論考を発表してきた。最初の論考は1990年代に発表したものである。それ以降自己開示は臨床家の間では問題になることが非常に多いが、これを正面から扱った本は皆無と言ってよい。実際インターネットで「自己開示」を検索することで、そのことが確かめられる。全くと言っていいほど検索に引っかからないことがわかるだろう。
「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、いまだに分析家たちにとっては論争の種である。この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会のA先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の先生からは否定されるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけではなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」と言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスには所持品があふれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。あるいは治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示していると言うのが、現代的な考え方の一つである。
ここから一つ言えることは、精神分析の本流からは自己開示は認められないであろうことは確かなことだということだ。これほど有名な先生方の見解なのだから間違いがない。しかしおそらく彼らはこともなげにこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」つまりは「正統派」の精神分析を外れたところに自己開示の真の価値があるということであろう。それはどのような意味なのか? あとは私たち4人がそれぞれ知恵を絞った論考を読んでそれぞれがお考えいただきたい。(以下省略)