2017年8月23日水曜日

第3章 解釈を問い直す (2)③

5.共同注視の延長としての解釈

ここで暗点化を扱うという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたい。
解釈的な技法は分析家と患者が共同で患者の連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視 joint attention, joint gaze と考えることが出来るのではないだろうか? まず患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それはたとえるならば、分析家と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出される。そこで二人は同じものを見ているつもりかもしれないが、もちろんそうとは限らない。患者の連想内容から映し出される像は、分析家には虫食い状の、少し歪んだ、あるいはモザイク加工を施されたものとして見える可能性がある。それはまた患者の側の説明不足、あるいはアナリスト自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化によるものである可能性もあろう。分析家はそれを仕分けすることを試みつつ、注意深く質問や明確化を重ねていくことで、少しずつ両者は見ているものが重なってきます。分析家がそこに見えているものを描き出し、語ることで、分析家はそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことで患者は共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことだろう。それはおそらく分析家と患者の関係の中で極めて基礎的な部分を形成するのだ。
ちなみに共同注視という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修の共視論により導入されているが、joint attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外ではあまり多くないという印象を持つ。(PePWEBで調べても、Joint attention は主として乳幼児研究に関するものであり、joint gaze に関しては一本の論文しか見つけられない。)しかしフロイトが患者のが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、患者が自分の心に浮かんでくることを眺めているというニュアンスがある。共同注視は、その語りを聞いているアナリストも車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうだ。


また共同注視という発想は、関係精神分析的な見方からは距離があるといわれるかもしれない。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与える可能性もある。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのであり、非常に関係論的だと私は考えている。
 
ちなみに同様の発想に関して、私は一昨年(平成26年)の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがある。分析家と患者が構成するのは共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれを検討していくうちに、両者の間にいやおうなしに生まれる差異が見出され、それを含みこむことで、つねに上書き overwrite、更新 revise されていく、という趣旨である。